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『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』〜20年経って、照れ隠しをすることの賛否〜

ということで、2024年始まって1ヶ月経たない時点で、今年僕が最も注目していた作品が公開されたということで、そんな作品を鑑賞してまいりましたので、感想を語っていきたいと思います。

ということで、『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』を取り上げます!

注意 思い切りネタバレします!

『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』について

作品紹介

  • 監督 福田己津央

  • 脚本 両澤千晶 後藤リウ 福田己津央

  • 原作 矢立肇 富野由悠季

  • 出演者 保志総一朗 田中理恵 石田彰 ほか

あらすじ

C.E.75、戦いはまだ続いていた。

独立運動、ブルーコスモスによる侵攻……
事態を沈静化するべく、ラクスを初代総裁とする世界平和監視機構・コンパスが創設され、キラたちはその一員として各地の戦闘に介入する。
そんな折、新興国・ファウンデーション王国から、ブルーコスモス本拠地への合同作戦を提案される。

公式サイトより引用

20年引きづり続けた『SEED DESTENY』の悪夢

なぜ続編公開まで20年かかったのか?

今作品を語る前に簡単に「機動戦士ガンダムSEEDシリーズ」について振り返りたい。
2002年から2003年までTV放映された『機動戦士ガンダムSEED』
この作品はこれまでの「ガンダムシリーズ」全体を通して見ても、中興の祖と呼んで差し支えない作品だし、今なおガンダム作品がコンスタントに制作されているのは、この「SEED」の大成功があったからだと言える。

この2000年代最初の「ガンダム」である「SEED」は、初代ガンダム『機動戦士ガンダム』を当時の世界情勢などに照らし合わせて再解釈、語り直した作品であり、当時のアニメファンへの目配せも行き届いた作品になり、大ヒットした。

ただ僕個人の話をすると、アニメ放映当時まだ能動的にアニメを見るという習慣はなく、実は再放送などで「SEED」に触れたのだが、当時のことを思い出すと、周囲ではかなり盛り上がっていることは記憶に刻み込まれている。

遺伝子操作された新人類「コーディネーター」
その存在を憎む旧人類「ナチュラル」
この二つの勢力が戦争を繰り広げるというのがメインストーリーとなる「SEED」
そしてそこに巻き込まれる少年少女の姿を描く作品として人気作になっていったのだ。

当然続編制作の話が立ち上がらないワケがなく、2004年から2005年にかけて『機動戦士ガンダムSEED DESTENY』という続編が制作される。

ただこの作品が曲者で・・・。
確かに人気作の続編ということで、商業面では大きな成功をしたのだが、あまりにも破綻したシナリオ、主人公の交代劇、さまざまな面で問題が多く残った作品になってしまった。

というのも、この「DESTENY」という作品、個人的には「SEED」の続編として文句ない新主人公を設定をしており、非常に意欲的な面が随所に見られる作品だった。

「SEED」では主人公キラはコーディネーターでありながら「地球連合軍」に所属、コーディネーター勢力の「ザフト」と戦う。
しかも「ザフト」にはかつての親友アスランがいて、親友と戦う苦しみを背負い苦悩する。
その過程で互いの仲間を殺され、ついに憎しみをぶつけ合い死闘を繰り広げる。
結果双方が双方を殺したと思い込み、憎しみを晴らしても何も残らない、「虚無感」に苛まれるのだ。
戦争の無意味さに気づいたキラ、アスランは手を取り合い、そして戦争に疑問を持つ者たちと同盟を結び、二大勢力の戦争に介入することになる。
そして、戦争を望む者を打ち倒し戦争を終わらせることを目的に行動をするのだ。

この「SEED」という作品を見ている限りでは、彼らの行動は「正義」のものに見える。
だが、その行動が世界に歪みを与えていたとしたら?
そんな視点で語られるのが続編「DESTENY」なのだ。
つまり「前作の結末のダークサイドを描く」ことに挑戦したのだ。

その「DESTENY」の主人公は、前作の主人公たちの行った戦局への介入で天涯孤独の身になった男シン・アスカだ。

戦争で全てを失い、戦争をしたがる人間を憎む不器用な男シン。
そんな彼の成長譚であると誰もが思っていたが、中盤以降の大幅な路線変更で彼は主人公ではなく、前作の主人公キラが物語の中心に変更。
シンはなんとキラに敵対するヴィランという役回りを設定される。

そんな「DESTENY」は物語の終盤「デスティニープラン」をめぐる争いになっていく。
ちなみにこの劇場版のキーワードにもなっている。

さて、簡単に振り返ると、人間がなぜ戦争を続けるのか?
その根本の原因を断つのがこのプランだ。
人間が争うのは「望み」を持つからだと、つまり人間が「ああなりたい」「こうなりたい」と思う、そこに他人という存在があることでその望みが叶わない、すると人間はその他人を「妬む」結果それが争いを生む。
そうならないために、あらかじめ人間の「人生」を設計し、決められたルートで歩ませる。
そのことで「争い」をなくすという、管理社会を形成するのがプランの内容だ。

極論に次ぐ極論だが、少なくともこの「SEED世界」では人類滅亡寸前クラスの戦争を短い頻度で繰り返しており、こうした極論だが、なんとか「争い」を無くそうとする計画には一応の理はある。

ちなみにこの「プラン」を「DESTENY」では倒すべき最大の敵デュランダルが提唱しており、主人公になったキラはこの計画を否定する。
前述したシンという存在は主人公からポジションを変えて、このプランを守護する者としてキラたちと対立をする構造に変化していく。

さてこの「DESTENY」の作品としての問題点は、この計画に対して主人公サイドが明確な代案を持っていないし、抽象的な理由でこれを否定し、最後にはプランを潰している点にあるのではないか?

この極論ではあるが、それでも「争いない世界」を実現させようとしたデュランダルの意思を潰してでも、提示したい未来像を主人公勢が一才示せないことが終盤明らかになる。
ただこれはおそらくだが、作り手も対峙しても示すべき未来像を明確に持っていなかったからではないか?
だからこそ、その答えをどう描くのかに苦心した結果、今回の劇場版まで20年の月日が必要だったのではないだろうか?

もちろん「SEED」「DESTENY」で脚本を務めていた両澤千晶氏が2016年にご逝去されたことも少なからず影響を与えていることは確実だ。
ちなみに今作は生前両澤氏が書いた脚本を監督である福田己津央氏が手を加えていると言ったが、さまざまなインタビューからの推測だが、前半は両澤氏、後半は福田氏のアイデアが多く詰め込まれていると思われる。

そんな問題点を抱えたシリーズの最新作である劇場版は、実質「DESTENY」後半の「デスティニープラン」を巡る物語であり、語り直しともいうべきストーリーになっているのだ。

自由な「愛」を謳う!

今作品は前述したように前作の「DESTENY」で露呈した主人公サイドが打ち出すヴィジョンの無さにフォーカスした作品だ。

「プラン」に対する明確な未来像を持っていなかったキラは前作のラストから2年後のC.E.75、いくら戦争を止めようと努力しても戦争は繰り返され、人々の憎しみの連鎖が終わらないことに苦しみ続けている。

そして彼の心はデュランダルの呪縛に支配されている。
この呪縛こそ、前作でキラが明確な対案を持たずにデュランダルを打ち倒したその反動だとも言える。
「本当は彼の言うとおりだったのかも知れない」と折れそうな心を必死に奮い立たせて、半ば焦りにも似た感情で世界の戦争に武力介入して、それらを収めていく。
ちなみにキラやシンは今作では「コンパス」と呼ばれる平和維持機構に所属しており、世界の戦争に介入して仲裁、不可能な場合は武力での戦闘鎮圧を行い、平和を築こうとしてる。

だが、その努力も虚しく結局人間は争いを辞めない。
疲れ果てていくコンパスの面々。
そこに戦後独立運動を行い、目覚ましい躍進を遂げた「ファウンデーション王国」がキラたちに協力を申し出ることになるのだ。

このファウンデーションそして、ここにいるブラックナイツのオルフェたちが今作の敵になる。
彼らはデュランダルの生前「デスティニープラン」運用のため生み出された「コーディネーター」の上位種「アコード」と呼ばれる「新種族」であり、彼らはデュランダルの提唱する「プラン」を指導する支配層として生み出されたのだ。(同時に超能力者で「洗脳」「読心術」が使用できる)

ただし「真の意味での平等」を謳っていたデュランダルの計画とは違い、彼らは選民思想で「プラン」を実行しようとするなど、実は元々の計画と大きな乖離はある。
これは現実に照らし合わせても、プロジェクトを誰かが引き継ぐと「歪んだものになりがち」という、これはこれで割と身につまされる問題ではある。

さて、この国家は「プラン」を運用して目覚ましい発展を遂げており、最終的に全世界に「プラン」の導入を訴え、従わないものは大量破壊兵器で全滅させるという恫喝まがいの行動に出ることになる。
そこにキラたち「コンパス」の面々が立ち向かうのが今回のメインストーリーだ。

最初は当然彼らの真意をわからず、招待された「コンパス」の面々は手厚く歓迎されるのだが、「ファウンデーション」の宰相であるオルフェとラクスが何やらただならぬ雰囲気になり、ラクスの恋人であるキラがヤキモキするなど、今作品全体を通じてキラとオルフェの「恋の鞘当て」的な展開を宇宙規模で展開しているのが特徴だ。

ネタバレ全開で評論しているので結論を書くが、実はラクス・クラインという存在もまた「アコード」であり、遺伝子レベルでオルフェと結ばれることを刻まれた存在であったことが明らかになる。
つまり「運命の赤い糸」を字で行く2人だということだ。

実はこここそ「DESTENY」の反省を活かしていると思しきテーマだ。
つまり「DESTENY」放映時にはおそらく作り手も「デスティニープラン」に対する代案を思いついておらず、「とりあえず、何かそれ嫌なんで」的な感じでそのプランを主人公陣営が叩き潰すラストを描き、視聴者をモヤモヤさせたのだが、今作はきちんと代案を用意してきた。

それが「自由」な「愛」だ。

つまるところ、「デスティニープラン」というのは全世界の人間の遺伝子を解析し、それぞれの人生プランを予め決定し、その通りに人間が生きていくことを強制するプランだ。
つまり誰と出会い、どんな仕事をして、そして誰と結婚するのか等。
それら全てを予め決定してしまおうというものだ。
つまりそこに「自由」な「愛」というものはない。

オルフェはラクスに「僕らは結ばれる運命だ」と言い続けるが、ラクスはそれを否定して、「自由な愛」こそ尊いと彼を否定する。
そしてキラとの未来を切り拓きたいと願う。
この三角関係的な関係性はある意味で『逆襲のシャア』的な展開であったりするなど、過去作の「ガンダム作品」のオマージュもかしこに散りばめられているのも特徴だ。

今作品は特に終盤「愛」についての問答が繰り返されるが、まさにこの「プラン」に対して作り手が掲げたのは「自由な愛」の尊さ、それを対案として用意してきたのだ。
ちなみに「キリスト教」における「愛」の定義とは「見返りを求めない。無償のもの」として定義している。
オルフェはラクスを「必要だから愛する」ということに対して彼女の返答「愛しているから必要なのです」というセリフは、まさに「キリスト教」における「愛」の解釈に非常に近いのも特徴だと言える。

ちなみにこの作品、最終決戦の展開が割と「バカ映画」的なノリで進んでいき、この部分に割と個人的には違和感はありつつも、ただ何度もいうように、今作は「決められた運命」を否定する最大の対案は「愛」だと主張する作品になっているので、見方によっては「甘ったるい」と思われそうな展開になってしまう。

そこを丁度良く脱臭するための「馬鹿展開」「勇者王シリーズ的」展開をしているのではないか?
つまり作り手の照れ隠しとも言えるのではないだろうか。

ちなみにこの作品で興味深いのはアグネスとイングリッドというキャラだ。
彼女は『逆襲のシャア』におけるクェス的立ち位置だが、そのある意味で恋愛気質で打算的な存在である彼女は、「自由な愛」を振り撒く存在として「プラン」の真逆に位置する存在とも言える。
しかし当然彼女のある種危ない「愛」は成就することはない。

イングリットは「アコード」であり、遺伝子解析でオルフェと結ばれることはないことを自覚しながら、それでも彼を愛してしまい苦悩する存在だ。
「プラン」を守る者としては「不適合者」である彼女は、役割と感情に板挟みにされ苦しむ存在であり、今作では最も悲劇的なキャラクターだとも言える。

このある意味で「愛」というのものに振り回される2人のキャラクターが用意されているのは、作り手の「しかし愛が全てポジティブなもの」にはなり得ないという、刺激物として用意されていたのかも知れない。

前述したが作り手は今作が「愛」を謳う作品としてある意味で「甘ったるい」話になりそうなのを、「馬鹿展開」と「2人の女性キャラ」を描くことでバランスを取ろうとしているように見えた。


「ファウンデーション」一度はおいでよ良いところ描写が足りない!

作品全体として前後半の落差がありすぎて、風邪をひきそうというような指摘もされる今作品。
ただこの落差にはそれなりの作り手の狙いは見えるのだが、個人的には前半の展開にもう一工夫必要だったと考えている。

というのもこの作品で出てくる「ファウンデーション」
ここはシリーズでも初めて出てくる場所であり、「プラン」を運用した「理想郷」であり、管理され尽くした「ディストピア」でもある。
作中で最初にここを訪れたキラたちは、確かに国家の中心地には足を踏み入れるが、ここに市政の人々の描写が一才描かれていないのが個人的には映画として良くない点だと指摘したい。

というのも、展開として後々この国家が「プラン」を運用していたことは判明するのだが、例えば最初に国家に足を踏み入れた際に市政の人々が「幸福」に生きていることをキラたちが目撃することで、キラの中に「とはいえプランは必要なのでは?」と彼の悩みを一段階重くすることもできたはずだ。
今作中盤のキラの挫折は、オルフェにラクスを奪われたと思い込み心が折れたとしか見えず、フラれたから拗ねてるようにしか見えない。
ここで彼の挫折に「プランを受け入れた方がいいのか?」というデュランダルを倒した後、ずっと彼が抱えていた迷いの爆発を加える方がドラマをより濃くできるし、そんな国家をエゴのために自ら滅ぼしたオルフェたちの非道さを強く印象づけることもできただろう。

ちなみにこうした「よくわからない国家」を上手く見せる手腕は「ディズニー映画」を参照してもらいたい。
『美女と野獣』のベルと村人による「ボンジュール」の展開。
「ミラベル」における「マドリガル家」の紹介展開、『ウィッシュ』における「ロサス王国」紹介の展開など、短時間でパッと世界を紹介することはいくらでも可能なのだ。

ちなみに展開として上手くないのはオルフェ、ラクスの邂逅シーンだ。
2人が特別な存在であることは物語の展開をする上で必須であり、それを描写することは重要だ。
しかし飛行場、アウラ女王との謁見、ダンスフロア、庭園、湖畔。
2人がシンパシーを感じるシーンを短時間に繰り返しすぎていて、後々の伏線とも言えるのだが、あまりに繰り返しすぎて展開として上手くない。
加えて、その2人を見ているキラとイングリッドの複雑な心理描写も一度で十分だ。

これを例えばダンスフロアと庭園でのシーンにだけ絞り、そしてダンスフロアは『美女と野獣」的な絵作りにしてしまいより劇的に描く。
そして不要な繰り返しを無くす。
そこで空いた時間を前述した「ファウンデーション」の国内の様子描写に割り当てる。

TVアニメのドラマ方式ならば繰り返しを続けても週を重ねるごとに印象は薄れるが、映画はそうはいかない、2時間という限られた時間を使っての演出としては、「映画として稚拙である」と言わざるを得ない。

今作の問題点として細かなMSの設定の矛盾などを指摘する声もある。
例えば「オーブ」で修理された「ストライクフリーダム弍式」の存在のをキラは知らないと見える反応だったが、では「プラウドディフェンダー」と呼ばれる強化パーツは「何用」に作っていたのか?
キラが存在を知らないと見える反応をしてた割には、「額ビーム」が機能として本体に搭載されているなど矛盾が挙げられたりする。
ただ、これらは個人的には小さな問題であるとは考えている。

実は見落とせない「愛」の違和感

今作は「DESTENY」で提示できなかった「プラン」を否定する動機に「愛」を掲げている。
それ自体は「DESTENY」の反省を大いに活かしているし、そこは評価をしたい。
だが、仕方ないが今作はキラ、オルフェのラクスへの恋の鞘当て展開になるので、どうしても「愛」の定義が男女間での「恋」というものに矮小化されている感は否めない。
それこそ「DESTENY」から2年後くらいに今作が生まれていたら、それも仕方なかったのかも知れないが、2020年代に作られる映画として、この価値観は少々首を捻らざるを得ない。

というのも2014年『アナと雪の女王』でディズニーが打ち出した価値観、つまり「愛」とは「男女間」の間で形成されるものが尊いのではない、さまざまな関係性において宿るものだという価値観を、すでに提示されてしまっているのだ。

「愛」の一つの形としてキラとラクスの関係性を打ち出すのは一向に構わないが、それが「全てである」というような展開は2020年代の映画としては、少々古いなとも思えた。

中盤のアスランがキラを殴る、彼らの友情も一つの「愛」の形であるし、シンがキラを尊敬していることも一種の「愛」だとも言える。
それこそカガリとキラの「兄妹」の間にも「愛」は宿る。

逆にオルフェは、こうした人間関係も全て「プラン」で決定つけられており、そこに自由はない。
オルフェがキラの仲間たちが、彼と共に戦う姿を見て、彼がそこにも「愛」のさまざまな形を見出していき、最終的に敗北するなど見せ方はいくらでもあっただろうと思うのだが、そこまでは流石に期待しすぎであるとも思いつつ、やはり2020年代の映画であるという観点から、ここはどうしても指摘しておきたいと思う。

素晴らしい映画体験だったことは間違いない!

とまぁここまで批判的な意見のように見えるかも知れないが、これはあくまで「映画」として観た際に指摘したいポイントだ。
もちろん「ファン目線」で観た際にこの作品がどれほど素晴らしいか、こうした視点も理解はしているつもりだ。

例えば前作で不遇の扱いを受けたシン・アスカ。
天涯孤独で復讐に取り憑かれた男だったが、今作では元々の性格的特徴である「クソガキ感」を全面に押し出しつつも、キラを尊敬するいい意味での「後輩感」を描かれており、すっかり憑き物が取れた状態で活躍をする。

読心術は「無心で戦う」ことで回避、洗脳は「心の闇の象徴ステラ」でガード。
ただステラでガードするシーン。
これもある意味で今作の根っこにある「愛」の描き方と一つではあるし、その照れ隠し描写であることはわかるが、ステラがモンスター化するとかは、やりすぎでは? とか言いたいことはある。

しかしシンに見せ場をというのは恐らく「DESTENY」で辛酸を舐めた彼を救済したいという作り手の意志だと思うし、これは素直に熱い展開だった。

そしてある意味でシリアスな爆笑をとる男アスラン。
彼のあまりにも「頭、野原しんのすけか?」と疑いたくなるような読心術回避、これも、ここまでのシリーズでの空気感とは大きく乖離はしているが、逆にここまで「馬鹿展開」に振り切っているのは、評価せざるを得ない。

個人的にも20年弱の時間を経ての懐かしのキャラの活躍を見れたことは非常に嬉しい部分もあり、ここまで紆余曲折会ったシリーズの劇場版をこの年齢になって、まさか楽しめると思っていなかったので、色々言いたいことはあったものの、非常に楽しい映画体験であったことは間違いない!

まとめ

ということで「SEED FRREDOM」
前半と後半のあまりの差のある展開に面を食らったし、よく考えると「映画として下手」な部分も多い作品だった。

なので正直映画ではなく、ベストなのは12話くらいのワンクールの連続アニメ作品として制作すべきだったと思うし、このボリューム感の話を2時間で満足に語り切るのは少々無理はあったと思う。
後半の超展開が色々唐突に見える場面も正直多かった。

ただそれでも「SEEDシリーズ」の続編を見れた喜びの方が大きいし、色々文句たれてますけど、非常に楽しい映画体験をさせてもらって十分満足もしております。

変な部分はご愛嬌と言うくらいには認められるほどには、好きな作品になりましたし、ぜひ「SEED世代」の皆様は劇場で作品を鑑賞してもらいたいと思います!



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