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ほんとうの私を知らない①:遠藤周作

生まれた時から自分が男か女か人間はわかっているものでしょうか。医者に言われた性別が、成長するに従って覆る人もいます。
自分が男か女かも知らないのに、人間が誰かを愛して愛されることが当たり前だと言えるでしょうか。
自分が何者か知らなくても人を愛する事ができる人もいるでしょうが、自分自身に囚われて他人に興味が持てない人も世のにはたくさんいるでしょう。
対人コミュニケーションの困難は、言葉を知らない事ではなく、他人に対して積極的に言葉かけしようという気持ちにあるのだと思います。
無関心が障害なら、他人への興味が尽きず愛に囚われ、憎しみに変わる人はこれも病なのでしょうか。

無関心と他人に固執する事を同じもののように語る人が多いような気がします。しかし、他人を無視する人間は、他人に無視されるぐらいはあまり気にならないのです。
むしろ、他人の悪意に気付かず、その静けさを居心地の良い空間だと誤解してしまう事さえありえます。

私には愛に狂い愛に苦しむことと、愛を知らずに愛を拒むことが同義だとは思えません。
どちらも過度に過ぎれば病むでしょう。
愛が満ちれば幸せな人がいて、適度な孤独が必要な人もいるのです。

言葉を交わさず、極力静かに過ごしたがる猫のように必要以上か、或いは必要とされても他との接触や環境領域の共有を望まないのです。

「ほんとうの私を求めて」遠藤周作

美しい表紙です。まるでそこに遠藤周作さんが座っていたようです。
この本について感想を書くと長くなりそうなので、何回かに分けることにしました。
遠藤周作さんの人生における問いについて、私はこう思う、実こうだこうだと自問自答して、時に反論しながら読み進めるような内省的な本でした。
エッセイで章と小話に分かれているので、ここについてはこう思うという形で書けばいいかなと今は考えています。

「私」とは何か:もう一人の私の発見

悪の匂い、幸福の悦び

ーそれはあなたの心の奥にひそむXをご一緒にのぞこうということです。
ーしかし、自分の素顔など興味がない、私は皆にみせている今の自分でたくさんだという人はほかのページをおひらきください。
ー「たとえば君、我々が幸福感という感覚はその頃の記憶をもとにして作っているのかもしれないよ。大きなものに守られて平和で無心だったあの胎内の記憶に似た感覚を我々は幸福感というのかもしれないよ」

胎児の頃の記憶がある、感覚を覚えているということを私は素直に納得することができません。さらに他人に守られた、それがたとえば母であったとしても、その記憶が最も幸福なものという気持ちにはなれません。
安心できる場所は常にだれかに用意されたものであるのか、私にはもはや空間など必要なく、ただ何もない露出した地面の上に立っていても誰にも邪魔されなければ幸福だという思いがあります。
私の心の中のXもどちらかといえば、自分を知ることを社会に求められるから知りたいというだけなのです。
自分の心のうちをどうしてそんなに他人に開陳したり、また隠したりする必要があるのか、私というより人間やこの社会というものの態様を知りたいと思います。

秘密の中の自分

ー自分の心の奥の奥にそういう感情がやはりかくれ、ひそんでいたことを私は自分がみた夢を通して知りました。夢は心の奥の奥にあるものを象徴的に表現するからです。
ーだから、あなたの本音の心を今からのぞいてみましょう。そこから、ひょっとするとあなた自身も気づかぬ悪の匂いがただようかもしれない。

あなたは自分が見た夢を自分で覚えていますか。私はたいてい覚えていません。私に他人に知られたくない本心があるとして、私はその本心と向き合う勇気がないから夢の内容を覚えていられないのでしょうか。
私は夢の中でもしかしたら、心の中を整理することを恐れているかもしれません。もっと雑多な物事に囲まれてのんびりとしていたくて、思考を整理してこれはこうだと言い切ってしまうのが怖いのです。

心に鳴り響く音

ー政宗白鳥という作家がこういうことを言っている。人間は、だれでも、それを他人に知られれば死んだほうがましだと思うような暗い秘密を持っているのだと。
ーしかし、そういうものは社会がそれぞれのあなたに無言で要求しているお面であって、あなたもそのお面をかむって会社や病院の前に出るにすぎません。
ーでは社会がそのようにあなたに無言で押しつけてくるお面ー母であったり妻であったり学生であったりするお面をつけているあなたは本当のあなたではないのか。問題はそこにあります。 答えはイエスです。

社会に適応するためには、他人が要求するお面をかむることが必要でしょう。しかし、私はそのお面がうまくかむれない人間です。
他人に隠したい悪意を自分が持っていたとしても、その過去の悪行は次第に知れてしまうのです。隠しておけないのだから、たとえ衝動的にやったり、その場しのぎで悪気なくやったことでも、それがいるか白日の下に晒されることを覚悟しておかなければなりません。

今年はTwitterがXという名に変わりました。それは開けてはならぬパンドラの箱ではなく、隠しておけずに露呈してしまう様々な人の心の中の悪意のつぶやきだというメッセージなのかもしれません。
どんな善行も売名のための手段であり、心から他人に尽くしたいわけではない。人は自分の心を守るために生きているのかもしれません。

病院で自分の症状を言うときに、どの程度の痛みか聞かれることがあります。それが人生で経験した最もひどい痛みなのかということは私にはよくわからないのです。例えば手術した後は手術痕が痛みますし、熱も出ます。しかし、術後が最も苦しかった記憶化と言われたら、やっと終わったとか、助かったとか前向きな安堵に満ちています。
それよりも寝られないときのひどい頭痛、腹痛を訴えてもその場から逃れられなかった時の記憶などの方がふいによみがえってきて私を苦しめます。

要求された妻というお面、娘というお面、学生というお面を演じているうちに本物になっていくひとは立派です。
けれども、私はいずれの場面にも適応できませんでした。妻にも母にもならず、学生時代はよく覚えていません。いつおとなになったのかも分からず、子供のような振る舞いも多いでしょう。
私は社会が求めるようなものを演じられた試しがなく、またいつ求められていたか分からないのです。
そして、私も私というものが何かわかってきませんでした。

以上。22頁まで。
それ以降の頁について考えたことが、機会があれば、また書きます。


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