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おすすめの本を読んでみた part.2「ブルックリン・フォリーズ」

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何とか間に合いました。

今月はnoteでおすすめされた本を読んでみようと思って本を買ったんですが、放置していました。

昨日から本を読んでは世間のニュースで気がそがれ、今日は今日でパソコンを使いだすと猫が邪魔して邪魔して、1冊本を読んで感想を書くだけでなぜかずいぶんとくたびれました。

さて、読んだ本についてです。

洋書の翻訳がいいなと思っていたら、惹かれるタイトルを見つけました!

この物語はストーリーは一つですが、いろいろな話が詰まっています。

ちなみに、noteでおすすめされていた本を読んで感想を書いたpart.1はこちらです。

また、長くなってしまうので、今回はこの物語の特性を3点に絞って書いてみたいと思います。

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1.共感性が高い

納得する印象的な言葉が多く、めんどくさいが、それが読書の満足度を上げてくれます。

大抵の文学とは、ある種の共感性を嫌うものです。唯一無二のものでなければ、他の文学を想起させ、ありふれた心情描写が他人の心を打つものではないと分かっています。今の流行りを追ったどんなコンセプトの漫画や小説だって、他の人の二番煎じという非難に陥らないようにどこか自分らしさというものを持たせようとしがちです。それは作者自身を語ると言うより、どちらかといえば取り繕いに近いような、誰かが作った模様なんだけれどもパッチワークの作品として自分自身の作品としてデビューさせるというようなことです。

けれども、この作品は今書いたように日常の作者の思いが冒頭からあふれ出て、読者自身の体験やそれこそどこかで読んだ文学作品を思い起こさせます。

冒頭から一文にいちいち立ち止まらなければならず、読み進みませんでした。例えば、癌を患って以前のように働く気の失せた”私”がこれまで自分の人生に起きた愉快な出来事を愚行の書として人を楽しませようと日記を書き始めながら、そうできなかったというところ、今の私がまずそうなのです。

以前他のブログをやっていた時には読書記録などつけようとしていたのですが、結局続かず、時間のできた今は、暇人の私のなんでもない食事の話や飼っている猫の話をnoteをやっている他の猫好きさんや料理好きの人と共有して一人でも楽しんでもらいたいとnoteを始めた当初は考えていました。

もし誰にも楽しんでもらえなくても、私自身が愉快な気持ちになれば、味気ない日常を意味のあるものにすることができるだろうと思ったのです。

けれども、することのない病人が家族に奮起を促されて日記を書こうとするが、意図した読者のための愉快な話では続かず、日記の中で時折陰気な内省に陥ってしまう、本当にこの小説の通りの状態に陥っているのです。

今のご時世、ニュースは暗いことばかり。私の人生つまんないしかない。

猫の話も暗くなる〜。
うちの猫は愉快なやつなのに〜。

そんなことを思いながら、noteの記事を書くこともしばしばです。

いわゆる、よくある心情ということです。

以前にとても若い人が芥川賞を受賞された時に、その選考委員の方が、文学に共感性が必要か?ということを文藝春秋の誌面で答えられていた記憶があります。

よくあること、誰もが思うこと、それを語って誰が喜びどんな意義があるというのか?私自身もそのように思うことはあるわけですが、自分自身のオリジナリティーを打ち出そうとしても、それほどの個性を持った人間でもないし、また実際の日常のように誰とも会話が成立しないような文学性もどきに陥ることも非常に嫌だと、その評論には共感できませんでした。

この物語では、作者はこの「愚行の書」の語り部の私に名を与えません。還暦を前に大病を患い、その前に不幸な結婚生活を終わらせていて、仕事も辞めて、何もかも真っ新な非日常的な人物として、私が登場します。生活感がない物語の方がえてして感動を呼びやすいことを作者はわかっているのです。そうしておきながら、あっさりいろいろな人物と出会って、最終的には大団円で家族を集結させてしまいます。あっさりと、文学性を捨てるのです。それ自体は見ないこともない手法なのですが、そんなご都合主義を、自分で”ご都合主義なことに”などと卑下して書かずに、そうした物語の進行上必要なことは当然とばかりに一切の弁解をせずに話をすすめます。

引っ越した私が、偶然に何年も見捨てていた甥と出会うこと、その甥の人生の不幸を解決してあげること、平凡な展開を終わらせるために現れたような、姪の娘のルーシー。そのルーシーの母親の私にとっての姪が、それまでの話ではけた外れに美貌に恵まれ、けた外れに歌が上手く、けた外れに不品行で、およそ話が通じない人物のように書かれていたのに、満を持して登場した彼女は、よくある不幸に陥っただけの不幸な女で、それほど学がないようには思われない、非常に理屈っぽい女であったことは人物設定が矛盾していて、あまりにご都合主義なこの物語の象徴のように思われました。しかし、この物語の中で彼女に起こった不幸はそう特別なことでもないので、あるいは、どんなに”まとも”な女性でもそういう不幸に陥ることは、アメリカではよくあることなのかもしれません。

”ブルックリン”

ニューヨークの特定の地名を出すことも、小説から非日常を奪う一つの試みです。高瀬川、四万十川、吉野の桜、高野山、金閣寺、日本文学でも特定の地名を出せば、読者の中にその場所に対する知識があるので、固定化されたイメージが出来上がってしまいます。誰も知らない山奥を舞台にした方が、筆者の都合のよいイメージを読者に植えることができ、実際にこの物語でも、そんな風に世捨て人になりたい男の話がでてきます。けれども、その男の夢を”私”は現実的でないとあっさり蹴ってしまうのです。

果たして中途半端にミステリー小説に片足を突っ込むような都会を舞台にした話で、次々と家族について事件が起こります。およそ、この話が”私”が癌を経験してからすべて1年以内に起こったこととするのは、無茶苦茶じゃないかという気がします。

けれども、その無茶苦茶具合が読者が思うニューヨークのイメージに合うのです。

2時間映画の脚本に無理やり合わせるみたいにして次々話のネタが起こるけれども、人生案外そんなものかもしれず、それすら大した人生でもないと話をスパッと幸福に終わらせてしまうところが拍子抜けです。

例えば、日本で純文学と呼ばれるものの多くが、歴史を語らないし、私小説に至っても、時の政権を作品の中でジョークでこき下ろすようなことをしません。そういう作品が純文学と称されることがあっても、大抵は大衆小説の分類に入れられてしまいます。それが日本的なあり方なのかどうかは知りませんが、10代向けのティーン小説だって、架空の話にしなければ、現代の政治を風刺できないところが日本の小説界にはある気がします。

けれども、この作者は、海外小説は、いとも簡単に世の中を汚い言葉で罵り、あるいは蔑み、時には痛快に斬って捨てます。それを物語を構成する世界観の一部としてあっさり認めてしまうのです。

求めていた日本の小説にはないような海外小説のらしさがこの作品にはありました。

そして、それが非常に読みにくく一方で爽快でした。

2.共感性が高い話の登場人物は共感性がないが如くに全てを客観視しようとする

作者は主人公の私であるが、倫理的には必ず甥のトムなのだろうと思いました。

先に書いたように甥のトムの妹のオーロラ、つまり私にとっての姪はすべての問題の元凶ですべての不幸を背負った人物として都合よくこの小説で存在するわけですが、それほど詳細に描写されません。詳細に描写してもただグロテスクに陥るだけで面白くもないですし、実際それを認めて作者は説明を省いているのでしょうけれども、比べて人間的描写の多い兄のトムはいかにも聖人です。

そして、この小説に出てくる悪党のような男性のすべてが、彼女ほど悪辣に書かれてもいません。これは作者が男性だから、女性に対して軽蔑的なのかわかりませんが、一方で美しく悲しいオーロラ以外の女性たちは、この物語に出てくるすべての男性より慎ましく真っ当な人間です。オーロラだけが性格破綻者のような書き方はどうなのかと思うのですが、ただ周りを引っ掻き回すだけでなく、彼女だけがこの物語で魅力的な女性に思えるのも不思議です。

そもそも、この物語の主人公である私は、癌になるまでの人生において、ただ仕事を真面目にこなしてきただけで、妻と娘にとって不誠実で、浮気したことも半ば妻のせいであるかのように考える、自他共に認める不品行な人物です。けれども、真面目じゃないからという理由で、なぜかみな彼に他人には決して言えないような話をして、彼を頼ろうとします。これまでの人生、妻も娘も甥も姪も見捨ててただ仕事だけしてきた男にしては、あまりに周りに好かれすぎているのです。しかも、それは彼が病気をして改心したからではありません。いざとなった時は頼りになるのだと周りが勝手に信じていて、実際彼は周りの期待通りに行動するのです。

いわゆる物語の主人公的主人公なわけですが、愛すべき純朴なトムよりやはり”私”の方が、都合よく他人を助けるので、頼りになって魅力的な性格であることもまた事実なのです。

歴史を語ったり、政治を語ったり、日本の小説ではそのジャンルを自認しない限りあまり文学を目指す作品でそういうことを混ぜて書かないと書きましたが、この驚くべき”ごった煮小説”は、物語の中で本の感想を述べるということをやってしまいます。

トムが語るカフカの人形という小説は、おそらくフランツ・カフカの実在する小説で、おそらく私も読んだことのある(変身以外にタイトルを覚えている作品がない)ものだと思うのですが、ストーリーすら覚えていないせいかどうか、トムが語るつまり作者が語る『人形』の解釈は、そんなに優しい話を書く人だったっけ?とどうしても思い出すことができませんでした。改めて読んで見ようと思ったのですが、ネットで出てこないので、捏造された小説でしょうか。まあ、どちらにせよ、「変身」の方を読んでみることにします。

それにしても、日本の小説の作法でありえないようなタブーを犯しまくって、とりとめもなく話をすすめながら、小説として成り立たせるなんて面白い書き方です。非常に新鮮です。しかし、著者について書いてあるところを読んだら、初めて読んだ作者ではなく、別の作品の「鍵のかかった部屋」は今も私の家にある小説だったんですよね。以前からこんな書き方をする作者だったかどうか、まったく思い出せません。そもそも横文字でも漢字でもあまり作者の名前を覚えられないのです。

3.話の筋は愉快ではないが人生の導きがあるので救いがないわけじゃない


とにかくトムに起こる不幸のすべては誰かが運んできたものです。彼自身は問題のない人物なのですが、まるでヘルマン・ヘッセの「車輪の下」のように将来哲学者になるはずだった、”私”の甥は再び出会った時には、転落の人生を遂げています。

まるで世の不品行すべて実行しなければ気が済まないという思慮分別のかけらもない女から、物語の進行上の不幸を全てクリアして唐突に兄と同じ人生の哲学者になった妹のオーロラが現れる前は、ハリーがその役割を引き受けていました。

ハリーは店とお金をそこそこ持っていて、見た目は奇抜で嘘ばかりつくけれども、愛情を持て余した不幸なバイセクシャルとして描かれていました。このハリーはつまらない仕事に身をおいていていたトムを粘り強く説得して書店勤務という彼にその不幸から少し脱出するに見合った仕事に就かせてくれるわけですが、同時に当初トムが警戒していた通りにうさんくさい詐欺に片足を突っ込んで死んでしまいます。

情が深すぎるがゆえに、過去に、したくもない結婚に流され、愚かしい愛人に騙され、66歳にもなって、再び現れたその元愛人に騙されてしまうわけですが、自ら選び取ってしまった不幸な人生のラストに小さな善行を施します。

それは経営していた古書店を賢明でそれなのに不幸なトムに残すことでした。  

ラストは他人の財産で悠々自適か?

と、また、都合の良いラストに戸惑うわけですが、それはこの物語の性質上大した問題ではないのです。人生のおかしみと悲しみを架空の物語で伝えてくれるのがこの作者の良いところなわけで、読者が物語の展開が秀逸であるとかどうとか求めるところではないわけです。

そもそもこの小説の中の結婚は全て妥協の産物でロマンスも何もあったものではありません。非常に現実的な描写も数々存在するのです。

様々な不品行を重ねた母親を持つルーシーは、とても賢明でたった半年の間に親戚をたらい回しにされても動じません。反抗心は、再開した母に向かわないことはないですが、都合よくこの家族の問題はもはや解決されたものとして終わるのです。

ニューヨークの一家のありふれたようで目まぐるしくご都合主義的なそれでいて、妙な納得感のある魅力的なお話でした。

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