続・本当に怖くない猫の話「憧れの人の助言」
「おっと、すみません」
「いえ、こちらこそ邪魔しました」
後ろから肩にぶつかられ、手に持っていたグラスの赤い液体が揺れてあわや一張羅のスーツにワインのシミができるところだった。それを持ち前のバランス感覚で回避した男は、目の前の仕立ての良いスーツを着た背の高い男性を見上げた。
2人がぶつかったのが、タイミングになってしまったのか、その長身の男性と一緒にいた女性が、話を切り上げて、別の席に去っていってしまった。
「いや、ちょうど話に詰まってたところだったんでいいんですよ。僕はこういった婚活パーティーに参加するのは初めてで」
「そうですか。僕は3回目ですよ。それでもやっぱり慣れませんね」
彼よりも、頭1つ分の高い男性は美しい微笑を浮かべた。男性だけれども、美しいと言う表現が似合う。穿った見方をすれば、少し気障な男だった。
「3回目ですか。常連じゃないですか。どうやって話を膨らませたらいいか教えてくださいよ。僕は人見知りなんで」
人見知りと言うのは、女性限定なのか。男は慣れ慣れしく、肩を叩いてきた。改めて見上げて、顔をまじまじと見てみれば、おそらく年下だ。名刺を差し出されてみたところ、有名な某テレビ局の職員だった。もしかして潜入取材と言うやつだろうかと身構えたところで、婚活パーティーを隠れて取材する理由もないかとすぐに考えを打ち消した。そもそも別にネタにされたところで恥ずかしいわけではない。学生時代にアルバイトしていた飲食店の店長を任されて以来、順調に業績を伸ばし、現在では10種類ほど分野の違う会社を経営している。世間的に見れば、勝ち組なのだ。今年で40歳だ。若社長と呼ばれる年齢ではなくなってきたけれども、今でも付き合いのある会社の経営陣の中では一番若かった。
「さあ、女性とスマートな会話ができるぐらいなら、婚活パーティーに3回も参加してませんよ」
「全くその通りですね。僕なんか参加するのは10回目ですよ」
後から声をかけてきたのは、前回のパーティーで顔見知りになった男だった。確か官公庁に勤めていて、医療技官をやっているのだとか。多少線が細い感じはあるが、ひと目見たら忘れないようなきらめく瞳の美男だからよく覚えていた。
「そうなんですか?いやはや、勇気出ちゃうなぁ。今日、空振りしても落ち込まなくていいわけだ」
長身の男は明るく笑ったが、社長は笑えなかった。1回目も2回目も何のチャンスを掴めず、落ち込んだ。3度目の正直で挑んでいるのだ。今回も何の収穫もなかったら立ち直れないかもしれない。大体10回も参加しているという目の前の男はその見た目と肩書きで毎回チャンスがつかめないというわけでもないだろう。よほど理想が高く選り好みしているに違いない。
「ん?そのハンカチは、最近やってるアニメのやつですか」
額の汗を拭った社長はテレビ局員の男に指摘され、はっとして気づいた。うっかり家から趣味のハンカチを持って来てしまったようだ。真っ赤なドレスを着た白猫が傍若無人に振る舞う深夜アニメで、あまり子供向きではないが、かわいいもの好きな中年男性というニッチな層に人気がある。
「そうですよ。猫の映画やアニメが好きなんです」
開き直って言えば、隣の席にいた女性たちが3人声をかけてきた。
「実は私、そのアニメを作っている制作会社に勤めているんですよ」
1番若そうな女性がうれしそうに社長に声をかけた。
「そうなんですか?絵を書くんですか?」
「いえ、私はディレクションや営業の方で」
女性がそう答えると、社長は次の質問が思い浮かばなかった。しばし沈黙が落ちて、他の女性が「私もそのアニメ1回見たことがありますよ」と勇気を出して声を上げたことで、再び会話がつながった。けれど、アニメの話が続いても、原作者のサインが欲しいなんて事は到底社長は言い出せなかった。相手の女性がそんなことができる立場かわからないし、もしかして制作現場の愚痴を聞いて幻滅したくもない。
ため息をついていると、別の女性に声をかけられた。
「あの、前回もお会いしましたよね」
「えーと」
「いえいえ、いいんですよ。覚えてなくてただその時もなんだか猫のストラップをカバンに下げていらっしゃったのを思い出して。アニメがお好きなんですか?」
「はい、いい年して恥ずかしい限りです」
「そんなことないですよ。私は猫好きの結婚相談所と聞いて入ってみたんですが、自分自身は猫を飼っていても、そんなに猫のことに詳しくなくて、皆さん猫のグッズだとか、小説だとか、エッセイだとか詳しくて、いつも圧倒されちゃうんですよ。私は子供の頃ちょっと荒れててつまんない生活をしてたんで、昔のアニメとかも全く詳しくないんですよね。趣味のある人たちがうらやましいです」
丸い眼鏡をクイッとあげて、女性はひどく真剣な面持ちで周囲を見回した。どこが身の置き所がなさそうで、婚活パーティーと言うより、こうしたお堅い立食パーティーそのものに慣れていなさそうな雰囲気が見て取れた。服装もずいぶん地味である。
「みんなずいぶんオシャレしてくるんですね。私は普段はもう少しおしゃれにしてるんですよ。でも前回を踏まえてスカートだと気合入れすぎかなとか、いろいろ考えすぎちゃって、相談所の人にアドバイスもしてもらったんですけど生かせなくて、結局こんなスーツみたいな格好で来たんです。自分のファッションセンスに自信がなくて。昔は私ギャルだったんですよ。あの頃は私無敵でした」
社長の不躾な視線に気づいたのか、女性はそう言って自嘲した。
「ギャルですか?」
社長はいかにも真面目な事務員といった風の女性の姿からは想像できない過去に興味を惹かれ思わず聞き返した。
「そう。服装とかめっちゃ派手にしてました。その頃もちょっと時代遅れだったんですけど、顔とかガングロにして、目の周りは白く塗って、まつげはバサバサで。いつも短いスカートはいてましたよ。そうやって周りを威圧するのがいいと思ってたんですよね。大学進学してから徐々に控えめにしてって20代半ばの頃かな、唐突に恥ずかしくなってやめたんです。それで一念発起して簿記の資格とって会計職につきました。親はすごい喜んでくれましたけど、自分が趣味をやめたら喜んでもらえるっていうのも複雑ですよね。今は趣味なんてなんもない。猫と1人と1匹で寂しく暮らしてますよ。その猫の話すら会話についていけなくて、オフ会とか参加しても友達ができないんです。私って手先不器用なんで手芸とかもできないし」
会計職の女性は2回目に会った気安さからか、社長にペラペラと自分の現状を話した。年齢は社長の1つ下。このギリギリの年齢で親を安心させようか、それとも開き直って独り身の楽しみ方を追求しようかと悩む心情は社長にもよくわかった。
「いいんじゃないですか。僕だって絵なんかすごくへたくそですよ。でもだからこそ、漫画とか描く人たちに憧れるのかなって思うんです。同じ作品をいくつも買うのは世間から見れば無駄かもしれないけど、僕はそういう風にしか貢献できないですからね。でも、ちゃんと自分の中にルールがあるんですよ」
1つの作品に同じグッズが3つまでしか買わない。それ以上買っても不況する相手もいないので、誰かにあげるあてがない。どんなに広い家に住んでもものはどんどん増えていくのだ。片付けに費やす時間が長くなるので、あまりグッズがたくさん出そうな作品には、30歳を過ぎてからは手を出さないようにしていた。それでもアニメや漫画自体は見るので、飾りもしないタペストリーをいくつも買ったりしてしまうのだが。
「そうですか。そういえば先日手芸の漫画を読んだんですよ。刺繍とか編み物とか、この年から始めても恥ずかしくないでしょうか?自分のへたくそな作品を飾っても」
「いいじゃないですか。僕は、他人の作品を飾ってますけど、楽しいですよ。ものが1つずつ増えていくのは。ちょっと片付けが大変にはなりますけどね」
「趣味部屋とかあるんですか?」
「もちろん。1つと言わずありますよ」
「そうなんですか。私は片付けが下手だから、グッズを集めるのは躊躇するなあ。でも、趣味部屋がある人は尊敬します。家の中に図書館みたいな場所があるとか憧れますよね。私わりと本は読んだんですよ」
「ギャルなのに?」
「そう、ギャルなのに。国語のテストだけは良かったんです。良かったといっても、ちょっとだけ」
2人は顔を見合わせて微笑んだ。女性には言わなかったが、社長も、割と昔はイケイケだった。オタクなのはアニメだけでなく、20代の頃はヒップホップにもはまっていて、学生時代はダンスサークルに入っていた。今もYouTubeで踊ってみた動画などを見ている。
けれども、自分と同い年のYouTuberが数年前に結婚して、子供が生まれたと言う報告を聞くにつれてそれまで興味がなかった結婚に急に焦りが出たのだ。自分も40歳までに結婚しようと。
会計職の女性と談笑しながら、その憧れのオタクダンサーYouTuberが動画の中で言っていた事を男性は思い出した。
"オタクに優しいギャルはいない。オタクに優しいギャルがいるとしたら、それは自分にだけ優しいのではなく、誰にでも優しいギャルなのだ"
オタクに優しいギャルは子供が考える空想の産物なのか。オタクに優しいギャルがいなくても、猫を飼っていて婚活パーティーでオタクに気を遣ってくれる優しい元ギャルはいる。きっと世間を知っている元ギャルであれば、オタクにだって誰にだって優しいのだ。
3度目の正直。猫と暮らすならものを減らそうと、社長はコレクションを整理した。そして、その元ギャルの真面目な会計職員と結婚することにした。四十代から始めるギャルとオタクの猫生活。なかなか悪くなかった。結婚式では、昔取った杵柄で最高のヘッドスピンを披露した。
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