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本当に怖くない猫の話 part.5

彼女は、猫を撫でながらかつてのことを思い出していた。

仕事を辞め、実家で一人暮らしを始めて1年目にその猫はやってきた。

「あっちへ行きなさいよ!しっ、しっ」

桜の花も散り切った4月の中頃のことだ。生後2か月ちょっとくらいだった。庭先に現れた三毛猫は鼻水を垂らしてやせぎすでいかにも病気持ちといった感じだった。

(かわいそうだけど、拾ったら病院に連れていかなければならないものね)

猫は治らない難病持ちも多い。生き物の一生の面倒を見れるほど女は心に余裕のある生活をしていなかった。洗濯物を干す間、まとわりついてくるのを払うが、玄関をぴしゃりとしめても玄関先でしばらく猫は鳴いていた。

昼ご飯を食べ、テレビを見て、猫がもう鳴いていないのを確かめて、女は洗濯物を取り込みに外に出た。

「痛いわよ。ちょっと!」

ところが、玄関を出たところで、にゃあと猫が飛び掛かってきた。背中に飛び乗られ、おろした髪をひっぱられて痛かった。どうやら、庭のベンチで横になって待ち構えていたらしい。

彼女はなんとか猫を背中から引きはがすと、洗濯物を取り込んで、部屋に入った。だが、今度も猫がいつまでも玄関先で鳴いている。

「ほら、飲みなさい。これだけよ。あと、これで寝ればいいわ」

彼女はたまらなくなって、玄関に出た。腹をくだすのはわかっていたが、それしかなかったので、人間の牛乳を子猫にあげると、猫は喜んで飲み始めた。ベンチが汚れないように、段ボールの箱を置き、その中に猫と牛乳の入った皿を入れた。

その日から、猫がいつくようになるのは当然のことだった。彼女は翌日は猫を無視したが、その翌々日からは毎日通っているコンビニで猫のご飯を買い込んで帰る日が続いた。

(避妊手術をした後に放せば、近所に迷惑はかからないわよ)

自分の心に言い訳する日々が2週間ほど続いた頃、猫が怪我をした。おそらく、他の猫と縄張りを争って噛まれたのだ。足を引きずっているのを朝に見つけてびっくりして病院につれていったが、どこを怪我しているかよくわからず、鎮痛剤だけ処方された。だが3日経つと噛まれたところの毛が抜けだして、2本の牙がささった痕が見えるようになった。左足から胸にかけては真っ黒だから、血がにじんでもわからなかったのだ。三毛猫だから、多分雌。身体も小さい。彼女はそれでも飼ってやる決心がつかず、夜になると庭の温室に猫を匿うようになった。不思議なことに、その猫は温室の鉢植えの木にはいたずらはしなかった。100均で猫の玩具をいくつか買い与え、温室から出すたびにいなくならないかと心配して過ごしながら、1ヶ月。

ある日、夜に大雨が降った。雷もドンドン鳴り響く。女は心配になって、温室を見に行った。すると、猫がいない。女は胸が引き絞られるような思いがした。縁の下までくまなく探して、名無しの猫をおーいおーいと呼んでみた。すると、かすかに声が聞こえたが、どこにいるかはわからない。女は焦って、もしやと思い、縋る思いで、庭の使っていない蔵の鍵を開けた。

ギギ―。錠前を回して重い扉を押して、懐中電灯でホコリ臭い中を照らした。すると、すぴーすぴーとかすかに寝息が聞こえてきた。女が古いソファに近づいていくと、ドーンという雷の音にも無反応で猫がすやすや眠っていた。彼女がそっと猫を抱きかかえると、猫は半目を開けたものの、すぐに閉じた。しかし、それが狸寝入りであることは、前足の爪をしっかり服にかけたことで分かった。

彼女が猫を和室の自分の部屋に連れていくと、猫はしばらく物珍しそうに部屋の中を歩き回った。しかし、眠気が勝ったのか、すぐに女の布団の上に丸くなった。外猫だから、身体は真っ黒だ。ノミもダニもいるだろう。女はぬれタオルを温めてきて猫の身体を拭いてやった。その間猫は薄目を開けてたまに見たものの、やっぱり起き上がろうとはしなかった。なんとなく綺麗になったところで、女は自分も布団に入ったが、朝までなかなかねつけず、やっと寝入った時には明け方になっていた。

そして、やっと雨音がしなくなった昼過ぎにうつらうつらしながら女が起き上がると、猫の姿がない。8畳一間のそんなに広すぎない部屋だ。障子も襖もしめきり、出ていけるところはないはずだ。半開きの箪笥や折り畳みベッドの下もくまなく探したが、猫が見つからない。

(まさか障子戸から出て行って自分で閉めた?)

たかだか生後3・4ヶ月の猫にそんな力はないと思うが、妙に人間にこびるのがうまい、物分かりのよい猫だったからもしかしてと思う。女は部屋を出て、屋敷中を探したが、やっぱり猫は見つからなかった。

(猫は死期を悟ると自分で姿を消すっていうわよね)

餌をいくらやってもいつまでもやせぎすで、くしゃみばかりしていかにも病気持ちの猫だった。温めてやったつもりだったが、雨で身体が冷えて死んでしまったのかもしれないと思うと、女の心臓もまた冷たくなっていくようだった。

結局日暮れ近くまで探したが、猫の姿は見つからず、お腹が空いたので、夕方、彼女はやっと食事を摂り、早めの睡眠をとろうと自室に戻った。

ところが。

にゃあ。

猫の声が寝室の部屋の中から聞こえてきた。

「にゃあ」

何となく彼女が猫の声まねで返事を返すとがざごそ音がした。彼女が音の方に近づくと、目の前の革製の手提げバッグの中から茶色と黒の山がぐーんと現れた。

それは、しっかり昼寝してうんと伸びをした猫の背中だった。なんのことはない。布団の上で一緒に寝ていたはずの猫はいつの間にか彼女のバッグの中に寝床を移していたのである。

にゃあ。

起きたばかりの猫は腹が減ったとばかりに彼女の足元をぐるぐると歩きまわった。

「仕方がないわね」

彼女はなんとなく部屋がかゆくなった気がして、腕や足をかきながら、今まで猫が入っていたバッグを取り、まとわりつく猫を部屋に残して、猫のご飯をコンビニで買ってくるべく、部屋を後にしたのだった。

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