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本当に怖くない猫の話 part.11

いつか誰しもが空に旅立ち、大地に還るのだろう。

何でも屋は一匹の猫を飼っている。黒猫でもう生後半年を過ぎた。子どもの頃に家で猫を飼ったことはあったが、子猫から育てるのは初めてである。初めは親しい依頼人に育て方など助言をうけていた。しかし、助言も何もいらぬほど子猫は順調に育った。

依頼人の女性に言わせれば、何でも屋の猫はかなり手のかからない猫らしい。

「いつでも抱っこさせてくれるなんて羨ましいです。そんな猫いませんよ」

そうだろうか。しょっちゅうまとわりついてくるので、何でも屋は猫を自分から退かすのに抱っこする癖がついていた。肩に乗ってきて爪を立てるので、おかげで真夏だというのに部屋の中でジャージを着るようになってしまった。部屋のエアコンは一日フル回転である。

依頼人の家に来ると、電気代の節約だけでなく、猫の餌代の節約になる。猫の餌などそれほどでもないが、何分収入の安定しない仕事であるので、できるだけ節約して貯金しておきたい何でも屋だ。週に2・3度も通っているので、依頼人の家にはいつも子猫用の餌が常備してある。さらに、今回は老猫の餌も加わったようだ。

「まあ、歳を取ってくればずいぶん猫も穏やかになって寝てばっかりみたいですけどね」

依頼人は何でも屋が手土産に差し入れた葛切りを口にしながら、器用にもう片方の手で膝の上の白足袋を履いた猫を撫でた。もう20歳近いというその老猫は、何でも屋とこの屋敷の主人である依頼人が部屋に入ってからずっと彼女の膝の上を陣取って寝こけていた。本来この家で飼われている方は、しょっちゅうお邪魔している何でも屋の猫と戯れていて、新たな猫の居場所など気にならぬようだった。いや、依頼人に言わせればこの家の三毛猫は賢いようだから、老猫に気を遣っているのかもしれない。

「その猫を引き取るんですか?」

何でも屋は自分も葛切りを口にしながら、迷った末にお中元を理由にこの家に来てよかったと思った。もう3・4日もメールで連絡がないのをおかしいと思って訪ねたら、彼女は困った事態になっていた。

「さあ、どうしましょうか。何でも屋さんに他に引き取り手を探してもらってもいいのかなと悩んでいたんです。・・・本当に、2匹いれば寂しくないなんて誰が言ったのか」

依頼人のその言い方に、何でも屋は少し不安になった。老猫を預かった"事の経緯"から考えれば、今の彼女の心境は理解できるものだったが、「2匹飼うことに不安を覚える」という彼女の科白を聞けば、そのまま彼女が猫の見合いの依頼を取り下げてしまうのではないかと思われたのだ。しかし、何でも屋の心配をよそに彼女がそのことについて言及することはなかった。

「何でも屋さんが飼うのはどうですか?いざというときはクロちゃんと一緒に私が預かりますから」

依頼人が期待を込めて何でも屋を見たが、彼はただ首を振るしかなかった。

「うちのはまだ生後半年ですよ。元気いっぱいだし、とうてい老猫では付き合いきれないでしょう。それに仲良くなったとして、せいぜいあと数年で死んでしまうとすれば、やはり、話に聞く通り、2匹だと残された方が可哀そうだ」

何でも屋が正直に言えば、依頼人も考え深げに頷いた。

その老猫は、最近まで賑やかな子ども3人の家族に飼われていた。しかし、その家で飼われていたもう一匹のキジ猫が死んでしまうと明るい家族の姿は激変した。老猫は元々人間よりも猫が好きな猫だった。若い頃保護施設に保護された時は、乳飲み子を抱えており、自分が生んだ以外の猫にも母乳を与えて育てるほどの甲斐甲斐しさだった。施設を出てその家族の家に来た時には何日もケージから出てこないほど警戒していたが、先住猫のキジ猫が受け入れてからは人間には触らせなかったものの家の中で自由に行動するようになった。そのやんちゃぶりはすさまじく3歳を超えた成猫とは思われぬほど、家じゅうの壁をひっかき、暴れまわり、夜中に走りまわっていたらしい。それでもそのキジ猫に倣って、いつしか人間のそばによって寝そべるようになり、風呂にもいれられ、ブラッシングもされ、爪とぎにも慣れ、抱っこが大好きになった。しかし、キジ猫が死んでから、食欲が落ち、家の中を徘徊し、夜鳴きをするようになってしまった。不幸なことにそのキジ猫が死んだ時期とその家の長男が大学受験に失敗して浪人した時期と重なった。また、その家の長女もその年高校受験を控えており、受験生二人を抱えた母親はナーバスになり更年期障害もあって躁鬱の病を発症した。喧嘩する兄姉と発狂する母と・・・その喧騒から逃れるかのように中学生の次女はたびたび家出騒動を起こし、弱った父親はとてもその老猫の世話まで手が回らないと困って猫を預けられるところを探し、巡り巡って依頼人のところに老猫がとりあえずお試しという形で預けられることになったのである。保護施設に預けなかったのは、また人間に慣れなくなったら困るということを危惧してのことらしい。相棒を失い、家族の喧騒のストレスが祟ったのか、老猫は腎臓病を発症していた。

「あんまり食べないし、水も飲まないから、おしっこを垂れ流すとかはないんです。おむつも必要ないほどで。でも、ただ日々寂しそうにしている猫をうちで引き取る意味があるかなって。うちで死んで幸せかなって考えちゃいますよね」

依頼人の言葉に何でも屋は同意のために頷くほかなかった。新しい家でただ死を待つかのごとく、眠りこける猫にとって、たとえ以前の姿と変わってしまったとしても、以前の家を離れてしまったことは健康のためによいことだったのだろうか。

「さらに新しい預け先を探すより、元のところに話を聞きにいってみましょうか」

その日、半日相談して、何でも屋は老猫の家族に話に行くことに決めた。依頼人は先住猫のいない引き取り手を探した方が老猫の負担も少ないのではないかと考えていたようだ。しかし、それならいっそ元の家に戻ってもいい話である。依頼人のようにほぼ家にいて、猫に慣れていていつでも抱っこされて裕福で快適な環境にいながらも痩せ細っていくばかりなのだから。

突然見知らぬ男が訪ねて来て警戒されるかと思ったが、依頼人が事前によく話してくれていたようで、思いがけずその家の父親から歓迎された。

「うちの中はずいぶん荒れていたように思っていたのですが、むしろ私が完璧を求めすぎていたようです。お客さんにはお見苦しいかもしれませんが、少し散らかったくらいのこの家にも慣れました。不自由なら私が掃除すればいいだけですし、最近は次女も掃除をしてくれるんです。長男は予備校の寮に入って、妻も少し落ち着きました。ここだけの話、長女が絶対推薦で早めに高校に受かるから猫を連れ戻してほしいと泣いて懇願されたんですよ。いつも引っ掻かれて傷だらけになっていましたし、猫を部屋から追い出していたから嫌っているとばかり思っていたんですが、どうも喧嘩友達というか長女が一番あの猫を大事にしていたらしいのです。連れ出していくときは意地を張っていたものの、いなくなって寂しくてどうしようもなかったんでしょうな。猫にとっては、たった一匹でこの家で暮らすよりもよその家で他の猫と暮らした方がいいのだろうかと、私も長女にどう答えたものか悩んでおりまして」

父親の話に頷くこともなく、何でも屋は出されたコーヒーをすすりながらただ聞き入った。父親はちょうど話し相手が欲しかったようだ。散らかっていると言われたが、その家の居間は何でも屋からすれば考えられないほどものがなく、整っていた。子どもがいるのにそれで散らかっているというのであれば、確かに父親は神経質な性質なのかもしれない。片隅にみられるコロコロや塵取りなど掃除道具は猫の毛を取るためのようだ。何でも屋は、『二匹で飼えば寂しくないなんて、だれが言ったのか。残された片方は、結局寂しくなってしまうのに』という、依頼人の言葉が思い出された。

「猫がいなくなって家族が寂しいなら、猫を戻した方がいいでしょう。猫にとっても長年暮らした慣れ親しんだ家族なんですから」

老猫は相棒に先立たれて心に傷を負ったかもしれないが、猫に先立たれた人間もまた少なからず心に傷を負うのである。だからといって、人間が寂しさを埋めるために次々と家族を変えることはない。そういう人間もいるかもしれないが、少なくともこの猫の家族にとってそれが得策だとは何でも屋には思えなかった。

「迎えに来てあげてください。今も穏やかに暮らしてはいますが、きっと待ってます。喜ぶと思いますよ」

何でも屋が言えば、父親は少し涙ぐんだようだった。出されたコーヒーが少ししょっぱくなったように感じた。

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