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我が家の庭の風景 part.113 「命の選別」

"雑草という草はない"とは、誰の言葉だっただろうか。雑草という草はなかったとしても、すべての草を生かしておくことはできない。
また、すべての草をむしってしまうことも不可能だ。結局、生き残ってしまう草もある。

パンジーやビオラの切り戻しをしっかりしたおかげで、今年の花付きが良いようだ。空を見上げているパンジーの花もあれば、我が家のリビングを窓から見張っているパンジーもあり、明後日の方を向いて物思いをしているビオラもある。パンジーやビオラは四方抜かりがなく、時には怒りっぽいような阿修羅のごとくいろんな顔をして、誰彼構わず問答をしている。

私は我が家の植物に話しかける事は無い。独り言をしないのではなく猫を飼っているので、植物に話しかけるくらいであれば猫に話しかけるからだ。その猫たちもわからないことを言われると困惑するので、いつも決まった言葉ばかり声をかけている。

同様に、植物たちも同じような世話で良いようだ。水をかけて肥料をあげて、たまには植え替えをして、栄養を他に取られないように周りの草を抜いてあげる。
もしかしたら私が知らないだけで自然に生えてくる草も園芸植物と共存できるコンパニオンプランツだったりするかもしれない。しかし、写真に撮ったときに草の方が目立っては見栄えが悪いので、ある程度草を抜いたりしている。植えたパンジーやビオラが元気だったとしても、その草を抜いてしまうのだ。

結局、合理的な園芸の手法のために草を抜いているのではない。実は全く余計な手間なのかもしれない。でもどうせまた生えてくるんだからとそれほどかわいそうな気もしない。もしかしたらこの場所に二度と生えてこない植物かもしれないなどということは考えない。

私は輪廻転生を信じていない。誰かの生まれ変わりだとか、少なくともご先祖様が我が家にやってきて、私を脅かすと思ったことがない。だから、子供の時からトイレが怖いと思ったことがないし、お化け屋敷も急に大声を出されてびっくりするだけだ。ジェットコースターの方がよほど怖い。

命はなくなったら終わりだ。間引かれた草は戻ってこない。でもまた生えてくると思ってしまう。同じ命ではないのに同じようなものが生えてくると思っているのだ。そんなふうに、どれもこれも似たようなもの扱いしてしまう自分が本当に嫌だ。

一つとして同じものはないと思っていたい。私が抜いた草花も大事な命だったのだ。仏の座もオオイヌノフグリも、ハコベもたくさんあるからといって同じ魂のかけらではない。それぞれが違った命だったのだ。

私は少しでも快適に暮らすために、草花の命を奪っている。それは人間のエゴだろうか。草花の命を奪うからといって、人間の命も似たような扱いをしたくない。猫だって同様だ。外にいる猫たちにいつかもう少し快適な環境与えてあげられるだろうか。全ての命を救えないとしても、私にまだできることがあるだろうか。

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