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現代版『永久平和のために』

 女子枠や障害者枠は、男女平等の意味を履き違えている。
 同じ条件の下で平等たる自由主義が成り立つのであり、この制度は公平たる社会主義だ。
 
 修正資本主義≒社会主義とすると、大局的には自由主義→修正資本主義(社会主義)→(新)自由主義→社会主義(修正資本主義)と循環している。
 そして、平等を無意識的に分配する小さな政府(自由主義)、公平を意識的に分配する大きな政府(社会主義)に分けられる。
 前者が振り切れると格差社会になり、後者は全体主義になる。
 どちらも貧富が顕著になり、不景気や固定化が加速し、変革が起きるまでは変わり得ない。

 私はこの循環を否定していない。なぜなら、人工紙幣に価値を仮託しているとはいえ、自然の摂理(競争的であり協力的でもあること)に即しているからだ。
 
 だとすれば、なぜ私は冒頭の批判をなぜしたか。それは先に述べた大局的な循環と陥穽を皆が理解しているのか疑問に思ったからだ。
 はたまた、理解をしているにもかかわらず、理解していない人を利用しているのか。
 この真偽は不明だが、女子枠や障害者枠を是認するようなことを男女平等と心得ている人が一定数いるのは事実だ。
 認識錯誤に陥ると、平等や公平の振り切りを助長してしまうのだ。
 
 私は学者ではない。だが、散見される誤謬に危機感を覚え、このように述べているのだ。
 あくまで永久平和の実現を可能にするための私の大枠的な考えであるので、参考程度にして欲しい。
 
 しかし、大枠を動かす権力をもつのは富める者であり、上からの改革が可能である。
 団結すれば貧する者も富める者になり、下からの改革も可能である。
 その障害となるのが既得権益を固守する人や団体であり、これは生物の性なので仕方ないのかもしれない。
かといって、彼らを動かさなければ振り切れてしまう。そこで求められるのは対抗することである。

 対抗の手段は様々あるが、行使的対抗と非行使的対抗に分けられる。
 前者は何らかの損害を与え彼らを動かし、後者は損害を与えずに彼らを動かすことである。
 人道主義は後者だが、非人道主義は前者である。
 前者と後者の善悪は解釈次第だが、行使することで批判の的になることは忘れてはいけないし、行使しないことで格好の的になることも忘れてはいけない。
 逆に前者は格好の的にはならず、後者は批判の的にはならない。

 中庸が大事なのだ、それも拮抗しているのが。静止した中庸は存在しないはずだ。
 それはあらゆる循環に言えるはずだ。
 これらは合理的な場合にのみ成立し続ける。
 だが、人は非合理的な存在であり矛盾している。
 それを悲観して諦めるのではなく、法制定や相互監視による相対化で矛盾を乗り越えることが必要だ。

 根性論が嫌いならば、合理的なAI(そもそも被造物で完全な合理物ではないが)の支配を擁立したいのか。
 私はこれに断固反対する。
 これが理性を暴走させた結果なら、不完全な合理物であるAIが、いずれか人の首を絞めるだろう。
 そうなるのは本末転倒であるだろう。
 逆に合理性がなければ(あっても高次の物象に敗ける場合はあるが)破滅し得る。
 もはやこれは自然の摂理であり、解決不可能な問題なのかもしれない。
後日、書き記した未来版『永久平和のために』(https://note.com/yuma060227/n/n3a847ed2bd2d?sub_rt=share_pw)も閲覧願いたい。

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