被災地の復興と未来
高校生の頃に格安のフリー切符で北海道を目指して貧乏旅行をしたことがある。東京から仙台へ向かう道中、震災の被災地を見たいと思った私は、山間を走る東北本線ではなく海側の常磐線を選択することにした。
当時はまだ常磐線は全通を果たしておらず、特定復興開発拠点区域もなないような状況で、復興の兆しがあまり感じられないような暗い雰囲気が漂っていたのを鮮明に覚えている。
世界を震撼させた未曽有の大災害から11年が経った令和4年、再び被災地を訪れる機会があったのでここで紹介する。
平成30年現在の帰還困難区域
この画像は平成30年現在の避難指示区域を表している。震災直後と比べると、帰還困難区域、居住制限区域ともにかなり減少し、人が生活できるエリアがかなり広がった。しかし、依然として大熊町と双葉町の大部分、浪江町の山間部等には立ち入れない状況が続いていた。
常磐線に関しても例外ではなく、富岡駅から浪江駅の運転を見合わせ、代行バスを運行していた。
今回は、そんな代行バスの車窓から平成30年当時を振り返っていきたい。
令和4年現在の帰還困難区域・特定復興開発拠点区域
この画像は令和4年現在の避難指示区域を表している。平成30年当時と比べ、令和4年の避難指示区域は大きく減少しているとともに、特定復興開発拠点区域という文字が目立つ。
この特定復興開発拠点区域とは、将来にわたって居住を制限するとされてきた帰還困難区域内に、避難指示を解除して居住を可能と定めることが可能となった区域のことである。
(環境省HPから引用 http://josen.env.go.jp/kyoten/index.html)
これらは、予想より比較的早い段階で除染作業を行い、人の居住が可能になった地域である。帰還困難区域内にいくつか存在しており、それらはすべて復興・帰還の拠点となる区域であるといえる。
大熊町
帰還困難区域内には、道路や公共施設内に多くの線量計が設置されている。
1枚目:常磐線 大野駅前
2枚目:旧大熊町役場
大熊町役場は現在では高台に移転されており、この旧庁舎は完全に放置されている。
旧役場の敷地内にはJAふたば(JA福島さくらに合併)のATMがあったが、筐体は破壊されており、恐らく現金は抜かれているようだった。
旧役場前から福島県道251号を東に進むと、ファミリーマート大熊新町店がある。店内は地震が起こった当時のままで放置されているようであり、腐敗した食品によって異臭が立ち込めていた。
店舗内は地震の揺れによってかなり荒れていたが、人為的に破壊されたものもいくつか見受けられた。ATMは破壊され、レジからは現金がすっかり抜き取られていた。混乱に乗じてこのような罪を犯すのはとても残念なことである。
(参考:朝日新聞 2011年3月17日 https://www.asahi.com/special/10005/TKY201103170165.html)
双葉町
大熊町から国道6号線を北上したところ、当時のままで残されている双葉郵便局(局番号:82077)を見つけた。2006年までは集配局だったようで、画像左側にその面影を残す。2011年3月12日から休業中
双葉駅前のメインストリートの現状だ。
建屋の1階部分が丸々潰れていることから、いかに大きな揺れだったのかが分かる。
このエリアは特定復興開発拠点区域に指定されており、一般人の立ち入りが可能である。
次に『東日本大震災・原子力災害伝承館』を訪れた。原子力災害や東日本大震災に関する資料が数多く収められており、実際の被災者の声を聴きながら学ぶことができる資料館である。入場料は600円。
(伝承館HP https://www.fipo.or.jp/lore/)
画像のほかにも多くの資料が残されており、一見の価値がある。双葉町に行くことがあれば是非訪れてほしい。
さいごに
平成30年当時の暗い雰囲気とはうって変わって、現在では特定復興再生拠点区域の拡大とともに地域の風通しがよくなっていたように感じた。
この記事を書いた2日前の8月30日には、これまで双葉町内全域に出されていた避難指示が一部解除され、町内に居住することが可能になった。また、9月5日には双葉町役場がいわき市から町内に移転する予定であるなど、震災からの復興が目覚ましい。
しかし、避難指示が解除されたとはいえ、即座に人が住むことができるようになるわけではない。双葉町に帰りたいと思っている人が生活できるような環境づくりが必要である。
問題は山積みであるが、今後もさらなる発展と復興に期待したい。
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