第1章 原点 ②「学生最後の四苦八苦」
こうして核問題のイベント準備と勉強に取り組む日々が始まった。この間に「ナガサキ・ユース代表団」の存在を知り、自分もその一員になりたいと思った。
真っ先に両親に相談すると、快く背中を押してくれた。公務員試験があるのに行っていいのか、ということは正直悩んだ。だが、1年に一度必ず受けられる試験より、一生に一度の大チャンスである国連を選んだ。
結果的にこれは正解だった。倍率の高い公務員試験には不合格続きで、お恥ずかしながら進路未定のまま大学を卒業することになってしまうのだが、これは後に思わぬ形で伏線を回収することになる。
なぜ渡米直前に大学へ報告したのか。一言で言えば「お説教されたくなかった」からだ。
大学3年生の冬から本格的に就活シーズンになる。そんな時に「国連に行きます」などと言ったら各方面から「就職はどうするの?」と突き返され、反対されることはよくわかっていたし、自分の決断に対してとやかく言われたくなかった。親しい友人にもこのことをニューヨークに行くギリギリまで打ち明けなかった。
そのため私は自分の選択と行動に全責任を負うと決めてユースに応募し、合格した。いわば既成事実を積み上げていったのだ。
ユースの任命式後、RECNAで本格的に核問題の勉強が始まった。
NGOや国連が出した英語の文書を読み込み、核問題の基礎知識や最新の情勢を学んだ。公務員試験勉強もしながら必死に食らいついていった。
いよいよニューヨークに派遣されてからは、生の国際会議を傍聴し、様々な人たちと意見交換をすることができて、大変貴重な経験ができた。さらに帰国後はその経験を発信するため、地元の中学生に2回平和教育をさせていただいた。
このような経験があったから、私は大学を卒業して社会人になっても核兵器廃絶の活動に携わりたいと思っていた。しかし具体的にいつ、どのような活動をするかは特に決めていなかった。
毎年国連に行けるでもなし、大学院へ進学して研究の道に進もうと思ったわけでもなし、教職志望でもなし。それでも漠然と「何かしたい」という気持ちだけは変わらなかった。
自分が心からやりたいと思えることを見つけた喜びと、大学に通った4年間に思いを馳せながら、2015年3月、私は長崎大学を卒業した。