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歌のシェフのおいしいお話(8)ウェルテル

青い燕尾服に黄色いチョッキとズボン。
というだけで誰のことかわかったら、なかなかの教養人です。

これは1774年にドイツで出版されてたちまちベストセラーになったゲーテ(1749ー1832)の『若きウェルテルの悩み』の主人公、ウェルテルのファッション。彼が初めてロッテと踊って恋に落ちたときに着ていた服、だからぼろぼろになるとまた全く同じものを作らせて、死ぬときにももちろんこの格好、というようにウェルテル自身が大変拘っていた服なのです。

熱狂的な読者たちはこのウェルテルファッションに身を包み、彼のモデル(の一部)であるゲーテの友人イェールザレムの墓に巡礼し、しまいには彼ににならって自殺する始末で、この小説は「精神的インフルエンザの病原体」とまで呼ばれることになりました。

フランスでも大ヒットしたこの小説を(フランス語で)オペラ化しようと思いついたのが、ゲーテより1世紀あとに生まれた作曲家、マスネ(1842-1912)です。台本はEdouard Blau、Paul Millier、Georges Hartmannの共同制作。なかなか上演機会に恵まれなかったので1892年ウィーン初演ということになっていますが、既に1887年にはスコアは完成していました。

小説のオペラ化には様々な変更がつきものですが、ウェルテルの場合も、原作を読んでからオペラを見ると、あるいは逆であっても、あれ???という驚きや発見が尽きません。

原作では自殺を図ったウェルテルは翌朝瀕死の状態でいるところを従僕に発見され、駆け付けたアルベルトや老法官(ロッテの父)やその息子たちに看取られる(ロッテは知らせに気を失ってアルベルトの前に倒れたとあり、死に際には立ち会わなかったと思われる)のに対し、ドラマではロッテひとりがその夜のうちにまだ息のあるウェルテルを発見し、ドラマティックな二重唱になります(オペラあるある、死にかけているはずなのに30分くらいいい声で歌うやつ)。

ウェルテルとロッテが出会った舞踏会のまさにその日に、ロッテの婚約者アルベルトが6ヶ月間の出張から予告なく帰ってくるという劇的な設定もオペラだけ(原作では、ウェルテルはロッテに婚約者がいることは知っているものの、アルベルトが実際に帰ってくるのは出会いから1ヶ月以上経ってから。そのひと月の間、ウェルテルはロッテの家に通い詰めてたくさん幸せな時を過ごし、小さい弟妹たちとも仲良くなる)。

オペラではロッテの妹のゾフィーは15歳くらいでウェルテルに淡い思いを寄せていますが、原作では11歳で、ドラマ上重要な役割を果たすことはありません。

何より、「ウェルテルの書簡や日記+編集者の解説」という体裁をとっている、つまりほぼ完全にウェルテルの目線から描写される原作に比べて、オペラではロッテが積極的に果たす役割が非常に大きくなっています。原作ではタイトルの通りウェルテルの苦悩に焦点が当てられ、ロッテの心の迷いは最後の最後になって「編集者」によって示唆されるのみで、それ以外は彼女は一貫してウェルテルを自分達夫婦のよき友人として扱い、アルベルトのよき妻としてクールに振舞っている様子が伺えます。それがオペラではウェルテルに対して「あなたのお側では、(アルベルトと結婚するという)誓いを一瞬忘れていました」と言ってみたり、ウェルテルを遠ざける決断を下したことについての苦悩を延々と歌ったりと、ウェルテルをのっぴきならぬところまで追い込んだ彼女の煮え切らない態度は、より罪が重いように見えます。

オペラの制約上(3時間程度に収める、登場人物や細々としたエピソードを小説ほど多くするのが難しい…)、重要人物を絞り、原作で起こるドラマを凝縮させて象徴的に各場面に織り込むという技術的な解決は一般的ですが、ウェルテルの場合、それだけで説明できない変質を感じます。どちらが面白いとか、オペラは原作の精神を尊重していないとか誤解しているとか、そういう話ではありません。そうではなくて、この変質はどこから来るんだろう?という話。


ヒントを求めて、小説『若きウェルテルの悩み』が受容された頃のフランスの様子に少し目を向けてみましょう。

フランスでは原作出版の2年後の1776年に既に2種類の、翌77年には3種類目のフランス語訳が出版され、1850年までの間に計10種類もの翻訳が出ています。
というといかにも文芸の栄えていた平穏な時代のようですが、とんでもない。世界史の授業で「火縄(1,7,8)く(9)すぶるフランス革命」って習いましたね!(?)

そう、1789年7月14日のバスティーユ監獄襲撃に始まり、ルイ16世とマリー・アントワネットがギロチン台の露と消え、革命の急先鋒、ジャコバン派のロベスピエールの恐怖政治、やがてロベスピエール自身がギロチンにかかる羽目になり、最後はなぜかナポレオンが皇帝になったというフランス革命。更にはそのナポレオンも島流しになって、極端な保守反動の王政が復活、もう一度革命が起きて七月王政、さらに二月革命、そして結局最後はなぜかまたナポレオンの甥が皇帝になったのが1852年。約半世紀でよくこれだけ国中上を下へ、また下を上へ、ごちゃごちゃできたなぁと感心してしまいます、流石はジレ・ジョーヌ(黄色いベスト運動)の国民のご先祖たち。

フランスで『若きウェルテルの悩み』が受容されたのは、だから実はこの大混乱の時期のことなのです。ナポレオンもこの小説の愛読者で、エジプト遠征の際にはポケットに忍ばせて行って7度も読み返したという話もあるくらいです。

この動乱の世紀は、当然、社会秩序のあり方、家庭のあり方、生き方の理想についての人々の価値観を問い直すことになり、文学の分野では、「愛」や「結婚」に対する様々な新しい考え方が提案されました。

野崎歓『フランス文学と愛』(講談社現代新書、2013年)が見事に俯瞰している通り、ギャラントリー(=宮廷風の色事)が雅の道としてもてはやされた太陽王の世紀=17世紀から、謀略あり、ポルノあり、崇高な純愛への賛歌ありの「奔放なエロスの世紀」=18世紀を経て、19世紀は「退屈の世紀」、宗教的道徳と体面を重んじるブルジョワジーのモラルが社会の基盤として確立した時代。
例えば有名なサド侯爵が「あらゆる他人を犠牲にして、みずから快楽を求めねばならぬという万古不易の聖なる意見」に従うべし、とのたまったのが1795年(『閨房哲学』)。バルザックが『二人の若妻の手記』(1842)で描いたのは、対照的な二人の若妻。恋愛結婚したルイズはついに幸福をつかめず夫は早死に、貧乏詩人と再婚するも平和な暮らしも子供も得られず嘆きつつ絶命。それに対して愛なき結婚をしたルネは夫を操り、3人の子供と出世した夫とともに栄えた家庭を満喫、しかし心は満ち足りているわけではない…
あるいはモーパッサンが「往時」(1880)という短編で浮き彫りにしているのは、18世紀生まれのおばあさんの「神聖なのは恋愛」という考え方に対して、19世紀後半に生きる孫娘が「神聖なのは結婚」と考え、「一生に唯一の大恋愛」を夢見ているという対比でした。

19世紀にしばしば登場する、恋愛結婚に基づく夫婦の愛を誇るべきものとし、婚姻外の自由恋愛を罪悪視する見方、しかし結婚が愛と無縁であることの告発、そんな文脈の中で、オペラ《ウェルテル》の台本では原作に比べてロッテの「義務に従う平和な結婚か、心を揺さぶる恋人か」という迷いが強調されてウェルテルとの関係がより劇的に描かれ、アルベルトはより退屈により陰湿になります。

「歌は世につれ世は歌につれ」。
歌は世の成り行きにつれて変化し、世のありさまも歌の流行に影響される、という意味の言葉で、東大の美学研究室での恩師、渡辺裕先生がしばしば引用されていました。
動乱の1世紀を経て、世の人々が期待するドラマは同じではあり得ず、人々の心を打つ人物像も同じではあり得ません。

ウェルテルの原作とオペラの変質も要はそういうことで、ゲーテが18世紀のドイツで提起した問題に、マスネたちが19世紀のフランスで彼らなりの解釈を提案しているように思えるのです。
そのような幾重もの解釈を許容するのが古典的な傑作の傑作たる所以、ゲーテの天才たる所以であり、その解釈の一つであるオペラ《ウェルテル》をこの21世紀に上演するのはそれをさらに解釈するという作業であって、とてもエキサイティングなことです。

というわけで、明日から、パリ郊外のロワイヨーモン修道院で1週間缶詰で、世界的なオペラ演出家モシェ・ライザーとパトリス・コリエ、コレペティのジャン=ポール・プリューナの指導のもと、優秀な歌手たちと共にこのマスネの《ウェルテル》についてみっちり勉強して参ります。昨年もロッシーニについての講習会でお世話になった場所であり、私のパリでの師匠もその昔ここでカラヤンのレッスンを受けた(うらやましい!)というような、伝統的に音楽教育に力を入れている施設です。歴史ある美しい修道院でありながら中身は現代的に快適に改修されて、ごはんはおいしく上げ膳据え膳、それで音楽のことだけ考えて暮らしていいなんていう夢のようなところです。
折角頂いた機会、楽しんできます!!!

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