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BIDMATHS

「ここにズラーっと、クエスチョン書いて。」

11歳の彼女は、流暢な日本語で、学校での出来事や最近観たYoutubeビデオのことなど、色々話をしてくれる。

算数が好きらしく、私に出来る所を見せたいらしい。
こっちは高校の一年までしか数学に触れていないので、分数や小数点の計算も随分ご無沙汰だ。

適当な数字を組み合わせた式をズラズラ書きながら、小学校の頃、何年もやっていた公文を思い出した。
何枚も例題が書かれた宿題は溜まるばかり。優しい先生は怒らなかったけど、教育ママの母はガッカリしていたはずだ。それでも、長く続けていたので、ある程度「要領」は身について、計算は出来るようになった。

「じゃ、解いてくね!」
張り切って始める彼女。彼女にとってはパズルをやっているような気分なのだろう。嬉しそうに、あーでもないこーでもないと、英語と日本語でつぶやきながら解いていく。
つっかえたところで、「こうやったらどう?」と、助け舟を出す。プライドの高い彼女はすぐに私の案に飛びつかず、自分がどう計算しているか説明してくれる。

そこで私は、突然、ある違いに気付かされた。

私の計算方法は機械的で、その背後にある「なぜそうするか?」は理解していなかった。早く正確に要領よく計算をこなす技術だけが身に付いていた。正解にはたどり着くので、特に生活に困ることは無い。

一方、彼女の頭の中は、もっと根源的な数字の世界を紐解いていた。分数の計算。掛け算、割り算。算数の域を出ない、一見簡単な計算式の中に、「数学的思考」が垣間見れた。

詰め込み教育された私と、数学を学んでいる彼女。たとえ同じ回答に辿り着くとしても、その道筋は遥かに違う。

数学は、「正しい答え」より、「どう考えたか」が重要なんだと思う。

夕方、自転車で家路に向かいながら、同じように自転車で公文のお教室に通っていた頃の自分を思い出していた。


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