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モンゴル、短い夏と生命の輝き 〜草原編②〜

前編はこちら
https://note.mu/yukomatsuda/n/nf4de9d5facf5

早朝の思わぬ訪問から数時間。相変わらず特にやる事もなくゆるゆると時間が経過していた。林からは止むことなくカッコーの声が響いてくる。
一晩中鳴いていたのだろうか。景色を眺めながら朝食を摂り、ボンヤリとそんなことを考えていた。

決してこの緩やかな時間の過ごし方が悪い訳では無いのだが、少々気分転換がしたかった。
あまりにも色々な考えが浮かびすぎる。アクティブに動いてみたい。
ならばやる事は一つ、乗馬しかない。早速ゲルのオーナーに相談をし馬を手配してもらった。

しばらくして、馬方の女の子に連れられて彼はやってきた。
そっと触れてみるとしなやかな短い毛の下に確かな温かさを感じる。

可愛い。

本当に平凡でありふれた言葉だがそれ以外の言葉が見つからなかった。
サラブレッドとは違いモンゴルの馬はポニーくらいの大きさしか無いので余計に親近感が増すのかもしれない。荒い鼻息もハエを追い払うためにパタパタと動く耳も何もかもが愛おしく感じられた。

早速艶やかなその背にまたがり、草原をトコトコと進む。規則正しく刻むリズムが確かに生き物の上に跨っていると実感させてくれる。

眩しい日差しに時折目を細めながら道なき道を進む。草原の香りを肺いっぱいに満たしながら。
真っ白なゲル、小高い山、どこまでも続く草原。テレビで見たことのあるモンゴルそのままである。

しばらくするとこんもりと生い茂った林が見えてきた。そして細い白樺が生い茂る小さなその林の前で馬から降りるように指示をされた。休憩なのだろうか。
英語の話せない馬方の女の子に身振り手振りで促されて馬を降り、そして林の中に案内された。一体なにがあると言うのだろうか。

答えは馬方の子の掌にあった。ちいさな野イチゴを持っている。
そして彼女はそれを口に含んだ。美しい白樺の林は野イチゴの群生地だったのだ。

日本の苺より小さな小さなそれを私も見つけて口に含む。
口いっぱいに広がる甘酸っぱさに何とも言えない気持ちがじわじわと沸き起こってくる。
はるか遠い異国の地で、夏の実りを自分で摘んで食しているのだ。
何だか子供の頃、夏休みに感じたワクワクのような懐かしいその気持ちに突き動かされ、しばらくの間無心で苺を摘んでは食べを繰り返した。

ふと見上げれば木漏れ日が美しい。
小さな林、それがその時の自分の世界の全てだと思えた。口に含んだ野イチゴの甘さと微かな草の香り、キラキラと緑に輝く木漏れ日とその向こう側にある空の青さ。鳥や馬の声。足元の柔らかな感覚は確かに自分が土や草の上に立っている証しだ。

五感すべてを使って生命を感じている。自分が生きているという感覚もそうだが、生命に囲まれているということをここまでリアルに感じた事は今までなかった気がする。あまりの壮大さと情報量になんだか目眩がしそうだ。

実は、私は子供の頃にこれとよく似たシュチュエーションに遭遇したことがある。ニューヨーク郊外のサマーキャンプに1ヶ月半ほど参加した時のことだ。その中のプログラムで早朝の乗馬体験をした際に林の中で野生のラズベリーを何粒か口にした、というものなのだがあの時は正直なにも感じなかった。単純に子供だった所為なのかもしれないが「ラズベリーおいしい」以外の感情はなにも収穫がなかったように記憶している。
しかし今回は違う。目に見えない「何か」に圧倒されているのだ。

この地に到着し、足をつけた瞬間から常に私に付いて回る「何か」が
林の中で一気に押し寄せてくる。
この得体の知れない何かを言葉で表すのなら「生命のエネルギー」とでもいうべきか。しかし文字に起こすと実に胡散臭い。
それに、ここまでくると正直ちょっと気持ちが悪い。オカルトも超常現象もマクロビにも興味がなく、パワーストーンでさえ信じていない自分には強烈すぎるワードだ。しかしそうとしか言えない「何か」は確かにそこにある。

娯楽も何も無いが故に自分の感覚や感性が過敏になっているのだろうか。
前日に草原の草花に対して感動したのがトリガーだったのだろうか。
冷静に自己分析を行う努力をすることで何とかその圧倒をやり過ごしたように思う。
時間にすればおそらく20分もその林にはいなかったと思うがまるで数時間も滞在したような不思議な気持ちになった。

そうして我に返った私はまた黙々と野イチゴを口へ運んだのであった。

<草原編③へ続く>


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