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悲しみが思い出にかわった

【悲しみが思い出にかわった】
この言葉、ディズニーの何かの映画が見たような…
そんなことを思い出した日。

今日は兄が亡くなった命日だ。
この蛍の時期になると、あー今年もこの時期だなと感じる。

夕方、家族で、仏壇の前に座ってお経をあげる。
誰も泣いていない。お経を終わったら、さっさと、ご飯。

思い出になったな。そう感じだ。

しかし、私は、家族が亡くなった悲しみは思い出になったが、まだ、思い出にならないことがある。

それは、兄が荼毘するまでの間に、たくさんの人が流した涙を見ているのが、悲しかった。

孫を亡くした祖父母の涙。

子供を亡くした父母の涙。

夫を亡くした妻の涙。

親戚の人の涙。

幼馴染を亡くした涙。

友達を亡くした友人の涙。

近所のおばちゃん、おじちゃんの涙。

加害者の涙、加害者の家族の涙。

私はどうしていいのか分からず、ただ、見ていだけしかできなかった。

泣いてる人に言葉がかけられない。

どんな言葉かけてもその人の悲しみを分かることは出来ない。

写真家の中川正子さんの言葉で
他人の痛みは分からない。
そして、自分の痛みも他人は分からない。

だから、今でも何も言葉が出ない。

お通夜、お葬式に行っても言葉が出ない。

「大丈夫?」とか絶対に言えない。
大丈夫なわけがない。

だから、私は何も言えない。ただ、頭を下げるだけしかできなかった。

この辛さは、まだ時間がかかるな。

でも、一つ言えることは、この悲しみがなかったら、私はこの子供達には絶対に会えなかったと感じている
これも私の人生には必然だったんだと思ってる。

そんな、命日の後に、親戚が亡くなった。
ずっと闘病していた人だ。

もう、面会も出来なかった。
4月に子供達の字でお手紙を書いた。
娘は桜を見に行ったこと。息子は今、学校で「あいうえお」を習ってると書いた。
息子は、やっと今、字を習ってる。息子の人生は今からだ。
でも、親戚の方はもう会えないかも知れない。
そう思った時になんだか陰陽を感じ、そして、切なく感じた。


これから、梅雨の時期になると、このことが思い出されるんだなと思った。


最後までお読みくださり、ありがとうございました。

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