我が家の非常事態時のハナシ
今ここにある幸せな生活は、いつまでも続くわけじゃない。人は自分の意志なんて関係なくいきなり理不尽にも命を失ってしまうことがある。愛する人と過ごせる時間には限りがあることを痛感した日のこと。
いつか何かの形でこのことを残しておかないととずっと思い続けていたのだけれど、育児に追われて纏まった時間をなかなか持てずにいた。あれから12年。自分にとことん向き合い、ようやくあの出来事に自分なりの意味を見出した今、書く勇気ができた。
noteという、書くことにおいてど素人の私にも、公に向けて書くという機会を与えてくれた、すんごいツールに感謝。
*****************************************************2008年1月。
上海に駐在してから3度目の正月だった。私と4歳の娘は、一足早く上海から帰国し、夫の帰国を待ちわびながら夫の実家で過ごしていた。
夫の実家は、昔から信仰深く、元旦の恒例行事として、近所の二ヶ所の神社に初詣に行く。
どれだけ仕事が忙しくても、その行事だけは無視できない夫は、大晦日の夜クタクタになりながら上海から帰ってきた。
元旦。夫倒れるの巻
よく覚えていないのだけれど、恐らくその日の午前中は、例年のように初詣に行ったんだろう。
夕方、居間のコタツで、夫、義弟、義妹、4歳の娘と私で、テレビを見ながらゆっくりしていた。夫は、ガガーゴゴーとものすごいイビキをかいて寝ている。
すごいイビキだね、とみんなで笑った直後だった。
夫のイビキが突然止まった。途端にびっくりするほどの変顔で硬直し始めたので、私は声を上げて笑った。近くにいた娘に、ねえ、ちょっとパパの顔見て、と私は呑気に言った。
ん?なんか様子がおかしい。変顔で止まってる。
ちょっとーっと言いながら彼の肩を揺らすと、そのまま力なく倒れた。
義弟が言った。「息止まってる!あかん、救急車呼んで!!」
救急車が来るまでの時間は、およそ10分ほどだった。その時ほど長く感じられた10分は後にも先にもない。
救急車を待つ間、みるみるうちに夫の顔色は悪くなる。何かしなくては。死んでしまう。
そうだ、以前受けた救急救命講習会で、マウスtoマウスの心肺蘇生を教わったじゃないか。
記憶を引っ張り出して、体勢を整える。首を持ち上げ、顎を高めに上げて気道確保。
のはずなんだけれど、重い。重くて顎を上げることすらできない。力が完全に抜けた大人の男の重さに驚いた。
その時家にいた家族の中で、最も気丈だった義弟が助けてくれた。おかげで、なんとか体勢は整えた。必死に息を吹き込む。何度も吹き込む。
何の反応もない。
(そりゃそうだ、鼻を閉じるのを忘れていた)
人はテンパると、平常時にできることができなくなる。
何かしなくては死んでしまう。
心臓に圧をかけた。力ない力で。
お願い!!起きて!!!
だめだ、何もできない。
そうこうするうちに救命士さんが到着し、頬を叩いて意識を確認した。もちろん反応はない。速攻電気ショックを施された。ドン!と響くようなすごい音がした。
その後救急車に担ぎ込まれ、人工呼吸器で酸素吸入などをしてもらったんだと思う。
病院まで同伴した義弟が、命に別状はないとお医者さんが言ってると電話をくれた時には、ほっとして、みんなくずれ落ちた。
しかし、ほっとしたのも束の間。意識が戻らないという。
このまま意識が戻らなかったら。
突然起きた出来事に訳が分からず、眠れない夜を過ごして朝を迎えた。
1月2日 家族
朝、病院に行って主治医の先生に話を聞いた。呼吸が止まっていた数分間、脳に酸素がまわらず、脳のどこかが損傷している可能性がある。意識が戻ったとしても、言語障害が出たり、半身不随や寝たきりになってしまうこともある、という話だった。
一緒に話を聞いた義父さんは沈んでいた。私は、意外と平気だった。命が助かったんだもん、そこで息してるんだもん、寝たきりになろうがいてくれるだけでありがたいよ。どうなろうが、私が一生世話する!
気持ちだけは強かった。
でも、実際問題、子どもたちはどうする?(お腹に第二子がいた)。生活費は?
女性はこういうときでも現実的になる。私が動くしかない。動ける人が動くしかない。確かな情報を得たくて、彼の身に何が起きたのか知りたくて、ネットで情報をかき集めた。そのついでに、すぐにでも働ける職を探し始めた自分の冷静さには驚いた。
その日から始まったICUでの治療は、体温をまず34度まで薬で落とすというもの。脳が急に目覚めると損傷しやすいので、体温を徐々に上げながら、脳を覚醒させていくという最先端の医療だった。
面会は1日1度だけ許された。低体温治療により、まだ恣意的に脳を寝かされている夫に会いに行った。
酸素マスクをつけたまま寝ている。つい昨日までの彼と同じ人間だと思えないくらい、完全に病人の姿であることに一瞬ショックを受けた。でも、息をしている。生きてる。それだけで安心している自分もいた。
私と娘は、夫が入院した後も、病院に近い夫の実家にステイさせてもらうことにした。
夫の実家は、昔から家族揃って囲む食卓をとても大事にしている。義父さんが車通勤だったこともあって、平日夜7時か8時には帰ってくる。家族みんなが揃うまで、食事は待つのが昔から習慣だったらしい。
一方、平日は父親不在が当たり前の環境で育った私。昭和の象徴のような頑固オヤジだったし、私は私で、反抗期は特に気だけ強い生意気な娘だったので、よく衝突した。しかもその衝突の場は、唯一私と父が同じ場にいる食卓。土日だけでも父と食事を共にするのは苦手だった。
そんな風に育ってしまったものだから、大人になってからも、父親という立場の人と一緒に食事することにいちいち緊張した。義父さんはとても優しい人だけれど、それでもなかなか前を向いて食べれなかった。
驚いたことに、夫の家族は、これほどの非常事態であろうが、いつものようにみんなで食事をすることを頑なに続けた。
義母さんこそ部屋に閉じこもりたかっただろうに、気を振り絞って台所に立ってくれたに違いない。母親の強さであり、凄みだ。ずっと部屋に閉じこもりっきりの私に言いたいこともたくさんあっただろうし、私を放っておくという選択肢もある。
なのに、「とりあえず食べよう。食べんと元気出ないから。」と優しくドアをノックして引っ張り出してくれた。
こんな私を家族の食卓の場に入れてくれる、家族として認めてくれる、この人たちの温かさと優しさに涙が溢れた。
追い討ちをかけるように、隣にいる娘に、パパはいつ帰ってくるの?と聞かれ、それまで夫の家族の前では泣かないでおこうと決めていたのに、涙が止まらなかった。食べることが大好きな私が、まさかご飯が喉を通らない体験をするとは思ってもいなかった。
そんな調子だったから、夫の意識が戻るまでの4日間の食卓にどんな料理が並んでいたのか、まったく思い出せない。
ただ、こんな非常事態時ですら、1日3回の食事を家族そろって食べる、この人たちはなんかすごいなと感じたことだけは覚えている。
どうしてそこまでこだわるのか。不思議でしかたなかった。正直、私のことなど放っておいてほしいと思う時もあった。
でも今なら分かる。
いつものように規則正しい生活を送ることが、自分たちの心を落ち着ける何よりの方法であり、食卓は、家族が互いに繋がり、一人で生きているのではないことを感じることができる唯一の場だったからだと思う。
でも、彼らはいちいちそんな事を考えて食卓を囲んでいたわけではない。無意識にまで習慣化された家族の団らん。それがこの家族の強さなんだと思った。
父の言葉
1月2日午後、病院に私の父が駆けつけてくれた。酸素マスクをつけた夫の姿を見て、父は「なんでこんなことになったんや。」とぼそりと言った。
そしてこう続けた。
「試練やな。長い闘いになるかもしれん。でもな、神様は悪いことはせえへんから。絶対せえへんから、信じるんやで。」
不安に押しつぶされそうだった私を、父の言葉が救ってくれた。あれほど一緒に食事をするのが嫌だった父だが、この時ばかりはその大きな背中にすがりたかった。
そうだ、信じるしかない。弱気になってちゃいけない。
病院の帰り道、一人あるきながら空に祈った。
もう一度、彼と青い空を見たい。
手を繋いで歩きたい。
心の中から溢れた想いは、至極シンプルなものだった。
1月3日 感謝
徐々に体温を上げていくと医師から説明があった。昨日までは無反応だった夫の手を握る。
握り返してくれた。嬉しくて嬉しくてまた涙が溢れた。
生きててくれてありがとう。
「Sくん、大丈夫。何も心配しないでいいから。今はゆっくり休んで。」
私の声が聞こえたのか、夫の目からも涙が流れた。何か言おうと口を動かした。声にはならなかったけれど、何を言いたいのかすぐに分かった。
ありがとう。
病室を出て、義父母と一緒に泣いた。
1月4日 復活
まだ4歳の娘には、何の心配もさせないよう、みんないつものように振る舞い、いつものように遊んだ。
その日も午前中、義父と娘と一緒に近くの公園に遊びに行った。非日常の中にありながら、日常を感じることができる時間は、私にとって心を落ち着ける時間になっていた。その日はとてもきれいな冬空だった。
義父の携帯に病院から電話がかかってきた。突然の電話に緊張が走る。
電話を切った義父が言った。「目を覚まして突然暴れだしたって。家族の人、緊急来てくださいって。」
緊張の糸が切れて、義父の前で声をあげて泣いた。義父も「良かったねえ。」と優しく穏やかな声で言いながら目頭をおさえていた。
慌てて病院に駆けつけると、夫はベッドの上で暴れている。3人がかりで押さえつける看護士さんたちを「離せ。触るなー。」と怖い形相で睨む。
命を救ってくれた方々だというのに。
脳が覚醒してすぐに起こる症状らしい。それにしても3日間意識をなくしていた人と思えないほどの体力と飛び起き具合だったから、先生たちも驚いていた。元水泳部で培った筋肉まで生き返ったか。
そこから意識がしっかりしてくるまでの間は、一冊ネタ帳ができるほど、いちいちすっとボケたことを発言してくれた。
どうやら自分が上海にいると思っているようで、周りにいるのは中国人の医者だと思い込んでいる。
「こんなヤブ医者はあかん!早くグリーン(上海の日系病院)に連れて行って!」と言って聞かなかったり、
面会時間の終わりが迫ってきたのでそろそろ帰ると伝えると、
「なに美味しいもの食べにいくん?トンカツ?え、なんで僕は行けへんの?」
と言って笑かしてくれた。
食べ物のことを話し始めたら、もう大丈夫だ。根拠はないけど、なんとなく、そう思えた。
その日の帰りの車、義父は、なぜか義母との、なり初めを話してくれた。出会った途端に、ああこの人だと思った、と。
まさかそんな話を聞くなんて予想もしていなかったから嫁として照れ臭かったけれど、義父が私を認めてくれたような気がして嬉しかった。
なり初めの話に続けて、義父はこう言った。
「えらい大きなお荷物を抱えさせてしまったねえ。」
こう言われて初めて、義父が抱く息子の嫁への想いに気付いた。
そうか、私は彼を託されてたんだ。そんな風にこれまで一度も考えたことがなかった。
彼に多くを頼り、甘えていた。よく結婚式でいう「彼女を幸せにします」は、男から女というベクトルだとどこかで思い込み、「彼を幸せにします」のベクトルが、育児でいっぱいになった私には欠けていた。
このことにふと気づいた時、自分のことが情けなく、取り戻せない過去を悔やんだ。子育ても家事も一生懸命やってるつもりだったけれど、違った。根本的な部分で間違えていた。
夫の意識が戻り、ここで話が終われば良いのだけれど、人生そんな簡単なもんじゃなかった。その後、また悩む日が来た。(続きはまた後日)
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