私は社会の課題を解決せず、希望に向かって突き進む。
「社会の課題を解決する」というフレーズがあります。私がプロボノ団体を立ち上げた2008年には社会起業家というワードが広がり、ETICやソーシャルベンチャー・パートナーズ東京という団体など、こぞって「社会の課題を解決しよう」というフレーズが立ち並ぶことになりました。
社会の課題を解決する!?
社会の課題を解決する、ということ自体にはもちろん賛成です。2008年フローレンスが「病児保育問題を解決しよう」というメッセージとともに社会にサービスを始めたことは、感動しましたし、これまで「そこにあったのに輪郭がはっきりしていなかったこと」に「病児保育」というラベルを貼ったことで、多くの人々がハッとしたのではないでしょうか。
ただ、「課題解決」「課題解決」という言葉を目にする度に、今のわたしはちょっとした息苦しさを覚えます。
というのも「課題を解決する」とはそもそも「この社会は不足している」という無言の前提がある。
「私たちの社会って不足してますよね?」というプレッシャーを無言ボディーブローのようにじわじわ感じる、わたしにとって「課題を解決する」とはそんなインパクトを持っています。
課題がないとダメなのか。
社会へのインパクトを考えたときに「社会の課題を解決する」以外の取り組み方や、伝え方があると思っています。
例えば、世界中の子どもたちを笑顔にしたいという想いで活動する、チャリティサンタという、お子さんがいらっしゃる家庭にサンタクロース(役の大人)を派遣する団体がありますが、課題を解決するというより「文化を作る」事業だなと思います。
課題解決という視点を強めて考えたら、例えば「暖かい地域間の交流が減っている」という「地域コミュニティのコミュニケーションの脆弱化」問題を解決しますとでも言えそうではありますが。
株式会社キッズラインも「日本にベビーシッター文化を」と銘打っています。こちらも課題解決視点を強めたら、「自由に働ける選択肢が不足」しているのでとか、「ワンオペ育児問題を解決します」というメッセージにすることも出来そうです。
でも、圧倒的に前者の表現の方がワクワクして、私もその一助を担いたいという気持ちになりませんか?
課題解決よりも、文化を創りたい
私は今、「対話」に関わる仕事をしています。では、それはどんな社会課題を解決するのでしょうか。
これも、頑張れば「組織のコミュニケーションの希薄化問題を解決したい」とでも言えそうです。
でも、私は対話を通じて、「自分を優しく慈しむ人が増えた社会を生きていきたい」と思っているので、それをそのまま伝えたり、「もう一歩自分の心にある言葉を話して、聞いてみませんか」という、表現をしたい。
「解決しよう」ではなく「こうしたいです」と発したい。
それは、やることが同じことであっても圧倒的にエネルギーが違いませんか。
課題を解決する、は圧倒的に「正しい」
「課題解決する」という表現に違和感があるということは、言いづらさがあります。
だって、「課題を解決する」って「正しい」から。正しいことに「何となく私には違和感があって…」って誰でも言いづらい。
もちろん、「課題を解決する」という表現に情熱を注げる人がたくさんいることも分かります。今、「課題解決」という表現をたくさん見かけることがその証拠の1つでもあると思うし、不足を何とかしたいという気持ちもその人の愛情です。マイナスを0にする領域に力を発揮する人もいるでしょう。
だた、私は今の社会には「社会の課題解決したい人」が多すぎると感じています。課題解決という表現を発見するたびに、それがその人なりの社会への愛情表現と分かっていても「不足の社会を生きているわたし」を感じて心がちくんとします。
私は社会の課題を解決せず、希望に向かって突き進む。
私は「この社会に不足はない」という視点で生きています。だから社会において解決したいことって特にない。
だって、これまで先人の方々が未来を生きる人がこんな社会を生きれますようにと、願って作り上げてきてくれていると思っているからです。
だから、過去を生きた人たちの愛情を存分に受けながら、「次はこうしたいよ、もっとこんな社会を生きたいよ」を生きていくだけ。
課題を解決するというメッセージの裏にも、「こんな社会を作りたい」が潜んでいることは分かっています。でも、だったらそちらを発信する人がもっと増えてもいいんじゃないかな。
この社会に不足も課題もないとしたら、あなたは何をしたいですか?
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