警備員Aさんのこと

見事な枝ぶりだった梅が根元からごっそり無くなっていることに気づき、茫然と立ち尽くしていると「ここの梅はそこの〇〇さんのお宅にもらわれて行ったんですよ」という男性の声がした。振り向くと梅があった中学の建直し現場で警備員をしている男性が立っていた。「桜とヒマラヤ杉はだめだったけど、グラウンドの大きなシンボルツリーは残りますよ」と、中学にあった植栽の行方を丁寧に教えてくれた。それがAさんとの出会いだった。

それから朝夕と昼休み、建築現場の前を通るたびに挨拶をするようになった。ヘルメットにちょっと手をかけて笑顔で「おはようございます」「こんちは」と言うだけの間柄。

そのうち現場を通るたびになんとなく違和感を感じるようになった。Aさんは少しだけ残った土の部分にチューリップやゴーヤを植えて楽しんでいて「優しい人なんだな」とは思ったが、そんな小さなことではない、現場全体を左右するような不思議な違和感。

ああ、そうだ、この現場は静かなのだ。もちろん解体工事の真っ最中だから、ブルドーザーはがれきを掘っているし、絶え間なくエンジン音も鳴り響いているのだが、たたずまいが静かな現場なのだ。

その原因の一つがわかった。Aさんは途切れなく出入りするダンプカーに一度も笛を吹かない。まるで調教師のようにバックミラーに手を置き、運転手と話をしながら、信号の合間にすっと出し、すっと入れてしまう。

小学生が現場の前を通るときは、ランドセルに手を置き、肩を組むようにして何か話しながらそっと反対側に渡らせてしまう。妊婦さんも杖を突いた老人も、Aさんは現場とその人の間に入り、Aさんと世間話をしているつもりのまま上手に反対側に送られているという寸法。
そしてAさんの手足の動きはミニマムで、大仰に手を振ったり叫んだりすることが全くないのだ。

Aさんに「なんで笛を吹かないのですか」と聞いてみた。「嫌いなんですよ」と言われた。「笛を吹くとその運転手だけじゃなくて、他の車も現場も過剰に緊張するでしょう。歩いている人も慌てるでしょう。車が渋滞しちゃったりするのも嫌なんだよね」という答えが返ってきた。

Aさんのような人をどこかで見たことがあるな、と現場に戻っていく後ろ姿を見送りながら「ああ、そうだ、『コンバット』のサンダース軍曹だ」と気づく。それはAさんの編み上げの安全靴も影響していた。時代遅れの軍靴のような姿。
警備員は現場の作業をするわけではないから、スニーカー姿の人も多い。
なのにAさんは昔ながらの黒い編み上げの安全靴にズボンのすそをぴっちりといれていた。真冬でもぶかぶかとしたジャンパーを着ることはなく、きつめに巻いたマフラーを襟の中に入れて、ジャンパーの前もきっちりと首元まで締める。少しの緩みが命の危険につながることをよく知っている。
「歴戦の勇士」の姿だった。だからサンダース軍曹を思い出したのだ。

ダンプが出ていくときは、その走りを止めずにAさんがタイヤをきれいに洗う。出て行ったあとも道路をきれいに洗う。
現場の出入り口を仕切るAさんが静かに動いていると、それが波のように現場全体に広がっていく。
私が感じた不思議な静けさ、不思議な違和感はそこだったんだ。

3回目の夏、建物は竣工し灯りがともった。最後のゴーヤをもらって「明日でこの現場も終わりです」と告げられた。連絡先を聞くこともできたのだけれど、Aさんも私も「お元気で」とそれだけ言って別れた。
またきっとどこかの現場で小学生の肩に手を置いているのだろうな。競馬、当たっているといいな。

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