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桜に願いを

小学4年生の頃通っていた学校で、一緒に帰っていた子達の誰が言い出したか「桜の花びらを地面に着く前につかまえて願いをかけると叶う」というのが流行った。あれ、大人になった今でも何となく毎年やってしまう。
と言うと微笑ましいエピソードのようだけど。煩悩煩悩。只々欲深いのです。消す気もないので除夜の鐘には近づきませんが。

思えば桜の花びらに限らず手当たり次第願を掛けてきた気がする。神社やら流星群やら。何なら彗星の火球にだって掛ける。あれ結構長らく夜空に居続けてくれるのでラッキーとばかりに長々と願いを述べてしまうのよね。ちょっと卑怯な感じ。
因みに神社は花園神社が好きです。芸事の神社だからね!(厳密に言うと芸能浅間神社か)

小児期からよく頭の中にあるものを書きつけていたけど、願いであれば大概のことは書いて願えば叶うという実感があった。魔法みたいに。
でも大人になるにつれ、魔法は消えていった。叶う願いは迷いなく想像できて相変わらず吸い込まれるように叶っていったけど、叶わない願いは邪魔が入るみたいに上手く想えない。きっと話は単純で、迷いなく願えるものは不安にならずに邁進できるから達成率が上がる、というのが願いの仕組みなんだろう。それが大人になると不安が増したり願いが複雑化したり、何かを信じるということが苦手になってきたり。
願いの仕組みの考え方自体は「引き寄せの法則」みたいなのと似ているのかも知れないけど、ああいうキラキラした感じより寧ろ諦念に近い。想えるか想えないのかがコントロールできない以上、叶うものは放っておいても叶うし叶わないものは叶わない。何なら起きて欲しくないことは、どれだけ想わないようにしても、指の間をすり抜けるように頭の中を占めて、起こる。
それもそのはず、経験は勘を養う。長く生きて経験が増えることで良くも悪くも答えが見えるようになってしまうんだろう。魔法の力が消える代わりに先読みの力を得るのか。それはそれでファンタジー。

魔法が使えなくなった私はそれでも煩悩まみれで、性懲りもなく願いを掛ける。
掌の花びらを見て、相変わらず欲深いねぇと笑ってしまう。解脱した先の世界は味わったことがないからわからないけど、きっと穏やかな世界は退屈で、私には生きられない。しんどいくらいの渇望でも、求め続けていられる方が楽しいんでしょう。もはや願いを「消さない」ための願掛けなのかもね。何というジャンキー。

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