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猫、時々ジャズ

大阪随一の繁華街を少し裏に入ったところに、そのジャズ喫茶はあった。

行ってみたいなぁと呟いたジャムセッション初心者のわたしに、セッションに行き慣れたあのひとが「一緒に行こう」と言ってくれたのが全ての始まり。
あのひとの音はあまりに美しくて、わたしはそれを近くでみていたいと常々思っていたし、その絶好の機会だと思った。自分の音にも音楽的コミュ力にも自信なんてないけど構やしない。どんと来い。

土曜の未だ明るい内から待ち合わせして、軽食を食べて、他愛のない会話をして店に向かう。
不意に、目の前を黒猫が横切った。
最近は野良猫もあまり見ないのに珍しい。
黒猫が横切ると不吉だとか幸運の前兆だとか言うけど、わたしにとっては嬉しい気持ちになるのできっと幸運の前兆の方なんだとおもう。

地下へ続く階段を降りると、薄暗い店内に、木製のテーブルや椅子が温かみを醸し出していた。
おっとりした女のひとがにこやかに迎えてくれる。正直なところものすごく緊張していたけど、彼女の笑顔で一気に波長が合ったような居心地のいい感覚に引き込まれて、この日わたしは自分でもびっくりするほど饒舌だった。

それからも度々あのひととわたしはセッションに訪れた。
わたしは練習してきたことをほんの少しアレンジすることでいっぱいいっぱいだけど、始まり方とか終わり方とかソロの回し方とか親切に教えてもらって、時々上手いひと達の素敵なセッションも見られて、隣にはあのひとが居てくれるから心細くもないし、踏み出してみてよかったなぁなんて思っていた。その時は。

何度目かのセッションの日、その日は本当に組み合わせの魔法で神がかった演奏があった。
そこには当然あのひとが居て、ものすごく楽しそうで、誰もが惹き込まれる演奏だった。

ここで素直にすごいなぁ美しいなぁ楽しいなぁこんな現場に立ち会えてよかったなぁ、なんて思えるわたしだったらよかった。
残念ながらわたしの思考はこう。やっぱりわたしはここに居るのに相応しくない。
本当は薄々感じていた。どれだけ初心者に優しくしてくれても、やっぱり上手いひとは上手いひとと演りたいんだよ。わたしだってわたしの得意分野ではそう思ってしまうもの。
アドリブもろくにこなせないわたしと一緒に演っている時より、他のひとと一緒の時の方が圧倒的に楽しそうだった。あのひとの演奏は何をどうしても十分魅力的なのだけど、楽しそうな時がいちばん美しくて、あまりにも好きだった。

それでもせめてあのひととわたしの「好き」が同じものだったら、それを理由に多少背伸びしてでもここに居られたかも知れない。でもそうじゃないことくらい、とうの昔に知っていたし。

ひとしきり他人の所為にして、何も言わずにわたしは彼らの前から姿を消した。
 

あれから何年か経って、わたしは遠くの街で働いていた。
ジャズはもう全然聴いていなかったし、楽器にももうずっと触れていなかった。大阪にも全然行っていない。思い出すだけで心が痛かったから。
思い出すものが何もないはずの新しい街で、それでもほんの些細なきっかけで度々とげとげと痛みを思い出しながら、それなりに生きていた。

そんなある日、急遽仕事で大阪に行くことになった。
大阪辺りに支社なんてないはずなのだけど、特別な案件らしい。
何年かぶりの新幹線の中、ぼんやりとあの店やそこで会ったひと達のこと、あのひとのことを思い出していた。
何せ数年前の記憶だし美化してしまっているところはあるにせよ、やっぱりみんな優しかったし、確かに楽しい時間がそこにはあった。
本当は逃げる必要なんてなかったんじゃないか? わたしは勝手に怖がって上手くなれるわけないって諦めて、痛がって勝手に手を離した。みんなはただそこに居ただけなのに。
……後悔めいた想いに、しんどくなってそっと蓋をする。

仕事は思いの外早く済んで、時間を持て余したわたしは暮れたばかりの繁華街にふらりと足を向けていた。勝手に足があの場所へ向かう。もはや大脳の所業ではない。

繁華街の裏路地。古めかしい看板に、地下に続く階段。
あーあ、来ちゃった。何だかんだ未練がましいな、わたし。

入るか去るか、いやほぼ去るつもりだけど、逡巡の最中。ふと脚に触れる温かい気配を感じて足元を見ると、黒猫が居た。
何となく「久しぶり」なんて呟いて、顎を撫でる。ここに初めて来た時会った子ではないかも知れないけれど。覚えてるよ、わたしは。
そこへ、人間の立ち止まる気配。街灯が作り出したゆらりと細く長い影。

顔を上げるとそこにはあのひとが居た。

ちょっとの懐かしさと意外な鮮明さで、記憶が蘇っていく。ああ、わたし好きだったんだよねその眼。変わっていない。
少し驚いた顔で、何を言うでもなく、しばらく顔を見合わせていた。
何も言わずに消えたことを怒っているんだろうか。いやただもう見ることはないと思っていた顔が急に現れたからびっくりしただけでむしろわたしのことなど何とも思っていなかったんじゃなかろうか。
ひとまず黙って居なくなったことを謝ろうか。いやもうそんなの今更だし、たまたま仕事が近くであって帰りに通りかかったんだよね〜とでも誤魔化して、さっさと踵を返そうか。どうせお店には入らず去るつもりだったのだし。8割方。

静寂を破って「久しぶり」と今度はあのひとが呟いて、階段の方へ足を向ける。
「待って!」
咄嗟にわたしはあのひとの腕を掴んでいた。えっ? 今わたし何て言った? じゃあねってさよならしようとしていたはずなのに。

ふたりとも目を丸くして、しばしの沈黙。その後、あまりにするすると頭の中にある言葉が素直に出てきて自分に再度驚く。
ねえ、本当は、仲間に入りたければ、居場所で在って欲しければ、ただここに居たいって言えばよかったんだよね。
今日は丸腰だけれども、わたしも一緒に行っていいかしら。

本当はずっと一緒に音を鳴らしていたかった。いつかは君の隣で誰より楽しい音を奏でられるようになりたい。君がいちばん好きな音楽を一緒に作れるくらいの。ただでさえ大きな差をいつ埋められるのかわからないけれど。いっそ思い切り自由な音同士をぶつけてばしゃんと崩れる時があっても、笑い合えればそれはそれできっと楽しい音になる。
そんな日まで、この場所は在ってくれる?
それは驚くほど心地よい祈り。

わたしの声に飛び退いてこちらを睨んでいた猫は、びっくりしたなもう、と言わんばかりに「にゃあ」と鳴いて、何処かへ去っていった。

そういえば、今日は土曜日。

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所属バンドCAFUNÉLの「猫、時々ジャズ」という曲を作った時に何となく頭の中にあった物語を書き起こしてみました。
曲も是非聴いてみてください!


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