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『永遠のマイノリティ』第一話

「愛するひと」

◆『あらすじ』フリーカメラマンの神眼優(かみめまさる)は、アメリカで旅行中に謹慎中のCIAの男とカフェバーで知り合い、友人になった。神眼が撮影した写真が、捜査に絶大な貢献をしたのだ。特別にCIAで訓練を受けた後、帰国した神眼は、警視庁公安課の影山鉄郎参事官に逆恨みを受け、公安から狙われるようになってしまう。だが、捜査対象外の神眼に手を出せず、係長、滑川孝が、新人の桑田ひろ子を研修として神眼の監視をさせることになった。神眼には溺愛している婚約者、横川愛がいるが、影山の狙いは二人の関係を引き裂くことで、それをひろ子にさせる思惑だった。警視庁の全婦人警官から、神眼と似ている男と恋をしたことがある女性を抜擢したのだ。何も知らないひろ子は、捜査の研修だと思い、神眼の尾行や監視をすることになり、影山の思惑通り、すぐに神眼に恋を抱いてしまう。その時に、渋谷でテロ事件が発生した。一般人とは思えない行動力で、ひろ子を救った神眼は人込みに消え、愛する女、横川愛の元に帰った。【表紙写真はイメージであり、モデルさんと本作はなんら関係はありません。撮影・山宮健】


警視庁、公安庶務、総務課。
「桑田くん、滑川係長が呼んでいる」
同僚の若い巡査の男にそう言われた桑田ひろ子は、「え?」と声を漏らし、思わずデスクの椅子から立ち上がった。滑川が座っているデスクに向かうと、彼は視線を会議室に向けた。
誰もいない会議室の奥に座った滑川孝は、桑田ひろ子に、
「好きなところに座りなさい」と言い、どこか不機嫌そうな表情で舌なめずりをしていた。
四十代後半の彼は、公安に勤めているようには見えないどこにでもいるおじさんの顔と体形をしている。頭髪も剥げかかっていた。
「なんでしょうか」
桑田ひろ子が口を開くと、
「先月、うちに転職してきたお嬢さんで、身長156㎝、年齢27歳。捜査経験はほとんどなし」
と資料を見ながら言った。
「わたしのデータでもあるんですか。公安ならありそうですね」
「心配しなくても恋愛経験までは調べていない。公安だからと言って、無実の仲間のプライバシーまで調べたりしないよ」
そう少し笑った。
「渋谷管内の交通課にいたのが先月なんだから、いきなり公安の仕事は無理だろう」
「当たり前ですよ。庶務が何をしているのかも知りません」
「昔は、反民主主義の団体や政治家を捜査していたが、そんな連中はほとんどいなくなって、まあ、なんでもやる部署になっているようなものだ。そこで君に頼みがある」
そう言った途端に、バツの悪そうな顔をした。
「この男を研修だと思って捜査してほしい」
と言い、Lサイズの写真を数枚、机の上に出し、滑らせるように投げて彼女に渡した。
「ん?」
桑田が思わず声を上げた。
「どうした。知り合いか」
「いえ、知りません」
と言い、なぜか顔がほころんでいる。
「君の好みなのか」
「そ、そんな…」
「好みなのか。そうか。それは良かった。捜査がしやすい。名前は神眼優、四十一歳。独身。職業はカメラマン。ああ、フォトグラファーと言わないといけないそうだ」
「ポリコレですね。カメラマンでいいですよ。何か法に触れるものでも撮影しているとか」
「結婚式の写真、友人の学校職員に頼まれて運動会の写真、売れないモデルのポートレートとかかな。お金持ちでもない」
「はあ? じゃあ、こっそりしているテロリストとかですか」
「だったら、外事の仕事だろうに。写真をよく見たまえ」
彼が乗り降りしている愛車がメルセデスベンツの新型だった。
「AMGというやつで価格は一千万円。彼は高級マンションにも住んでいる。脱税の容疑がかかっているみたいだ」
「ええ? だったら、国税局の仕事ですよね」
桑田が失笑した。
「その国税がいくら調べても金の出どころが分からないから、国税局の友人に頼まれた。だけど、我々の仕事じゃないから困り果てて、君を呼んだ」
「え? わたし、このためだけに交通課の婦人警官から公安に来たんですか」
「そうかもしれない」
「じゃあ、この神眼って男の捜査が終わったら、また交通課に戻るんですか」
「そうかもしれない」
げんなりした顔つきを見せた桑田に、
「捜査が長引けばずっといられるし、金の出どころ次第では君が手柄を得て、ずっといられるかもしれない」
と言った。
「わかりました。彼に関する資料をください」
「ない。公安の仕事じゃないから、今から君が調べてくれ。それに表向きは君の研修だ。練習、勉強みたいなもんだ」
「研修は本当なんですね。接触する時に公安なのはばらしていいんですか」
「まさか。OLのふりをして逆ナンパでもしてくれ」
「そ、そんなことできるはずないですよ。でも、彼の懐に入るにはそれしかないかなあ」
ニヤニヤしながら言うと、滑川は初めて優しく笑った。
「若さは羨ましいよ」と言う。
桑田ひろ子が退出すると、五分ほどして恰幅のいい男が会議室に入ってきた。
「あれが、例の女か」
思わず立ち上がり一礼をする滑川。男は参事官の影山鉄郎だった。
「神眼のタイプの女です。全国の婦人警官から選んだほどなので、神眼がどんなに怜悧な男でも彼女に堕ちるはずです。もちろん、彼女には男はいません」
「怜悧か。ふん、ぜひ、体を使ってでも堕としてほしいもんだ」
滑川の隣に腰を下ろした影山が、顔を寄せ、
「国税の友達との板挟みは辛いな」
と言い、笑みを浮かべた。何も心配している様子はなかった。

渋谷にある歩道橋でストリート写真を撮っていた神眼優は、近くにOLスーツを着た若い女がずっといるのに気づいていた。
一度、ファインダーの中にいたからだ。彼女がこちらに歩いてくるのをデジタル写真に収めている。
彼は写真を撮るのをやめて、階段の一番上に立っている彼女、桑田ひろ子に視線を投じた。
「なにか?」
遠くからそう訊くと、ひろ子は神眼に近づいていき、
「何を撮ってるのかなって。わたし、写真が好きなんですよ」
と屈託なく笑った。
「さっき、下を歩いてきた君も撮影した。ただのストリート写真だ」
「女子高生のスカートの中を撮っていたら、迷惑条例で連れていかれますよ」
「そんな写真は偶然でしか映らない。ストリート写真は合法だ。知ってるよね。OLの恰好をしたお巡りさん」
苦笑して言う。ひろ子が思わず目を丸めた。
「胸のサイズは標準なのに胸のポケットが膨らみすぎている。そこにボイスレコーダーがあるなら止めてほしい。それとも防犯グッズかな。俺は君に危害なんか加えない。鞄の中にも盗聴器の類のものがあるなら出してほしい。じゃないと俺は全力で走っていく。ヒールの君は俺には追い付かない」
「……」
「いいのか。道玄坂の坂道で君はぶっ倒れるぞ。一人でラブホに入るのか」
ひろ子は、ボイスレコーダーを見せて、鞄の中も彼に見せた。
「他には何もありません。わたし、研修生なんです。妙にお金持ちのあなたに付きまとうように命令されただけだから心配しないでください。ド素人ですよ」
「逆に怖いな」
急に優しく笑い、空を見た。
ひろ子はその彼の横顔に見惚れていた。彼女の好みの顔立ちだった。鼻が高く、ほっそりしていて、笑うと目尻が下がる。身長は175㎝くらいだが、スリムジーンズの足は長く見えた。髪の毛は写真では長めだったが、今は短髪にしてあった。少しだけ、こめかみに白髪があった。
「この辺りに大物政治家か官僚の家はあるのか」
唐突に言った。
「は?」
「あのヘリはなんだ?」
上空を飛んでいるヘリコプターを見て、眉間に皺を寄せた。
「あ、こ、いや、警察のヘリだ」
公安のヘリだったが、思わず警察のと言う。だが、
「公安のヘリじゃないか」
と言われてしまう。
『なんなのこの男』
ひろ子は思わずヘリではなく、彼を見てしまった。
「大物政治家か官僚か、どんな人物でもいい。公安が警護している人物の家はあるのか」
また訊かれた。
「え? 分からないけど、あのホテルで官房長官がよく会食してる」
すぐ傍に見える高級ホテルを見た。
「そんなことを俺みたいな一般人に教えていいのか」
「あなたがしつこく聞くからでしょ」
「逃げるぞ。地下鉄だ」
「な、なんで逃げるの? あなたと。わたしにはよく分からないけど、あなた悪人なんでしょ」
「俺が全力で逃げたら、靴がヒールの君はここに置き去りだ。俺が悪人でもかまわないから、手を握って一緒に走ってくれないか」
「は…はあ…」
呆気に取られてしまう。一緒に走ったら逃げ遅れるかもしれないし、何が起こると言うのだろうか。
神眼はひろ子の返事を待たずに、急に、ひろ子の手を握り走り出した。連行されるように地下鉄の入り口に連れていかれて、階段を駆け下りると銃声が響いてきた。
「えー?」
階段を降り切ったところで、ひろ子が声を上げた。
ビールの宣伝ポスターが貼ってある壁にもたれかかった神眼が、「カメラが重いな」と言い、ひろ子に渡した。思わず一眼レフのカメラを抱きかかえた。
「ちょっとわたし、見てきます。これ、邪魔」
と言い、カメラを返そうとしたら、
「ダメだ。おまえ、拳銃を持ってるのか。悲鳴が聞こえないのか」
と言い、ひろ子の腕を力強く掴んだ。外から女性の悲鳴や男たちの怒号が聞こえている。もちろん、銃声も。神眼は階段を駆け上り、外の様子を見て戻ってきた。
「爆発物はなくて、警察官たちが犯人を追っている。こっちに向かって来たら危ない。無線か携帯で何が起こってるのか聞けないのか」
そう言われて、思わず公安の総務課にスマホから電話をした。
「外事が追っているテロリストの一味を渋谷で抑えているところらしい。おまえ、近くにいるのか。危険だぞ」
と同僚から教えられた。
「近くですよ。危うく巻き込まれるところだった」
「誰かと一緒なのか」
思わず神眼を見る。
「か、彼氏です」
「なに? まあ非番なら何をしててもいいが、運が悪いな。早く、そこから立ち去れ」
ひろ子が神眼を見て、
「誤解しないで。彼氏じゃないですよ。極秘なんで」
「身内に極秘で俺を捜査か。あんた、公安なんじゃないか」
「あ…」
「まあいいよ。彼氏じゃないけど、一緒に逃げるぞ」
そう言うと、カメラをひろ子に持たせたまま、地下鉄のホームに向かった。

「カメラ、重いんだけど」
半蔵門線の椅子に並んで座っているひろ子が、拗ねた表情で言うと、
「かわいいスパイだな」
と神眼が笑い、カメラをひろ子から取り戻した。
「俺のお金の出どころなら、マルサにも言ったが、パチンコ、競馬、友人から借りた金だ。一時所得を超えた時は納税している。過去なら、勝手に調べてくれ」
――過去?
「正直に言うよ。君、俺のすごい好みだ。警察も必死だな。俺の懐に入り込んで、過去を知りたいわけだ」
ひろ子は神妙な顔で、彼を見ていた。
――過去を調べるようには言われなかった。お金の出どころと研修だって…
「調べて、知ってもらってもいいけど、あんまり俺の友達には言わないでほしいな。けっこうマイノリティだから」
「マイノリティ? 同性愛者ですか」
そう訊くと、神眼の目の色が変わった。
「おい、お嬢さん、マイノリティがLGBTだけにしている世の中をなんとかしろよ」
と怒った。
「そ、そんな怒らなくても…」
「マイノリティの意味は?」
「少数派」
「その通りだ。同性愛だけが少数派か」
「ち、違う」
「他には」
「日本なら、アイヌの人たちとか部落の人たちとか…拡大解釈をすれば女性も」
「知識はあるようだな。いくら研修でも少しは俺を調べてから来い」
――だから今から調べてくれって言われたのよ
またふくれっ面をするが今度は褒められず、神眼は、大手町で降りてしまい、人込みに消えた。ひろ子は、
「正体があっさりとばれて、逃げられました」
と滑川に報告すると、
「まあ、最初はそんなもんだろ。自宅は分かっているな。そこで見張ってろ」
と言われる。
「一晩中ですか」
「適当でいい。急な案件じゃないからな」
「わかりました」
桑田ひろ子は彼が住む日暮里のマンションに向かった。

「何者か知らんが、まずはこの女、横川愛との仲を引き裂く」
会議室のテーブルの上に写真を出した影山の顔は怒りに震えていた。
写真には清楚な面持ちの美女が映っていた。どこかのカフェで働いているのか、その店の制服を着ていた。
「米国の連邦警察局から身柄引き渡しの要請が警察庁にきた。ところがこっちにはこれだ」
それはCIAからの書面だった。英語で、『神眼優に手を出すな』と書いてある。
「官房長官が狙われている情報をCIAからもらっていた手前、私がどれだけ頭を下げて回ったか。警察庁のエリートどもにだ」
「笹田官房長官も警察を止めたそうですね」
「なぜ、パチンコや競馬をしながら結婚式の写真を撮っているような底辺にいる奴のことで、この私が頭を下げて回らないといかんのだ」
「婚約しているみたいですね。桑田くんと浮気でもすれば破談ですよ。それでご満足ですか」
滑川がそう言うと、
「なんだ、その言い方は。桑田とかいう女を使うのが嫌なのか」と憤った。
「いいえ、公安ですから。対象が凶悪なら、女に潜入もさせます」
「凶悪に決まってんだろ、アメリカに渡航歴がある。その時に何かやってるんだ」
「殺人事件に絡んでいたけれど、CIAも絡んでいた、ですか」
「どう絡んでいたのか、それは分からない。恐らく永久に」
影山はそう吐き捨てると、会議室から出て行った。

「女?…と子供」
神眼のマンションのエントランスに、幼稚園生くらいの娘を連れた美女が入っていき、神眼の部屋の前に立ったのを見たひろ子は目を丸めた。思わず、携帯を取り出し、「係長、女がマンションにきました」と連絡した。
「横川愛、彼の婚約者だ。職業は喫茶店のウエイトレス。子供は父親が不明」
「不明?」
「それも君が調べてくれ。彼女の存在を調べたのは私だ。ただ、喫茶店に入っただけだがな。父親がどうこうは二人の会話から盗んだ」
「なんで全部わたしが…手分けしましょうよ。佐藤くんなら暇そうですよ」
「ダメなんだ。その男は、捜査対象外。君しかいない。つまり研修で…たぶん、残業代も出ない」
「えー? それって研修でもなく完全にプライベートじゃないですか」
「そうかもしれない。後で上と相談しておくが期待しないでほしい」
「辞めます。元の警察官に戻ります」
「全力で銀座のお寿司を奢る」
「やります」
ひろ子は通話を切ると、ため息を吐いた。
――なんだ。『やっぱり』彼女と結婚するのか
部屋の灯りはついたままだ。今、夕方の五時。子供が寝たら、愛し合うのだろうか。
桑田ひろ子は張り込みが嫌になってきて、いったん、家に帰ることにした。

「真起子、ちょっと寝た」
布団の上でうたた寝をしている娘を見た横川愛が、神眼に抱き着き、キスをした。
「シャワー、浴びてきた。あっちの方で抱いて」
キッチンの方に目線を向けると、二人はすぐにその場所に行き、乱雑に抱き合った。
「もっと、ゆっくり一晩中抱きたい」
「もう少し大きくなったら、お母さんが一晩なら預かってくれるって。そしたら新婚旅行に行けるね」
「結婚したらね」
「するもん」
横川愛は、少し快楽の声を漏らしながら、
「あなたと結婚できなかったら…、わたし、死ぬから」
と言った。

六年前、学生時代からバイトをしているカフェで仕事中、体の異変に気付いた愛は、まさかと思い、婦人科に走り込んだ。
妊娠していた。
数か月前、大学の卒業記念パーティーの夜、泥酔し、二次会の居酒屋で起きた時に体から男の臭いがした。
だが下着はきちんと穿いていて、トイレに行っても精子が膣から流れ落ちてくるような感覚はなかった。便器の中の水が濁っているように見えたが、首を傾げながらすぐに流してしまった。
気を失うように寝ている間に犯されていたのだ。
誰の子か分からない。男たちは十人以上いた。何人にやられたのかも分からなかった。
顔面蒼白のまま、婦人科から出たら、そこに神眼が立っていた。カフェの常連客で顔見知りだった。愛が勤めているカフェは郊外。常連客ばかりだった。
「あ、いつもお世話になっています」
消え入るような声で頭を下げて、とぼとぼ歩いていたら、
「お腹の子供はどうしますか」
と訊かれて、びっくりした。
「すみません。母の薬をもらいにきていて、待合室にいました。聞こえてしまった」
「そ、そうですか。中絶します。ぎりぎり間に合いますから。誰か知り合いの男性に同意書を頼まないと」
神眼は、
「そこの公園に座りませんか」
と言い、新緑の下にあるベンチに目を向けた。
二人は並んで座った。
「あなたがなってくれるんですか」
「まさか。僕は父親が誰か分からなくて…なんて言ったらいいのかな。その父親を憎んでいます」
「そ、そうなんですか」
「だけど…」
神眼は真剣な目で、愛を見つめた。
「生まれてきてよかった。君に会えたから」
と告白した。
「わ、わたし?」
「ずっと好きでした。僕が辛い時、君の店に行って、君の笑顔を見て、僕は救われてきた。注文以外に話しかけてくれるようになってから、生きててよかったって思うようになった。君が死んだら、僕も死にます。その子も産んでくれませんか」
「で、でも…」
「僕と一緒に育てませんか」
「あ、あなたがわたしに好意を抱いていたのは気づいてました。わたしもそれなりに…」
言葉を止めた愛は、
「わたし、あなたが想っているような女じゃないです。さっきの話は嘘です」と言う。
「嘘?」
「もう男とお持ち帰りの約束をしていたけど、二次会で泥酔して寝てしまった。ゴムなしでされたのは許さないけど、そういう女です。誰とでも寝てるんですよ」
「なぜですか」
「あなたと同じで、お父さんが行方不明です。母がわたしを産んだ後、離婚してどこにいるのかもわかりません。大人になったわたしは、体が勝手に男を欲しがるようになった。セックスは時には苦痛で機械的でも近くに男がいたらやりたくなる。誰とでもイケるようにもなった。あなたがわたしを抱きたくて、そこのトイレでやればわたし、すぐにイケますよ。きっとあなたは楽しい。そういう関係がいいと思います。ただ、お金とかプレゼントはもらいますけど」
「……」
神眼がトイレを見て、ぼうっとしていると、
「ね、冷めたでしょ?」
と愛は言い、立ち上がった。神眼がその腕を掴んで、またベンチに座らせる。
「僕も嘘を吐いていました」
「…?」
「母親の薬をもらいに行ったのは嘘。外から盗聴した」
「盗聴?」
愛が声を上げた。思わず、神眼から離れようとする。
「いつもカフェでカメラのメンテナンスをしているカメラマン。それは確かに本職ですが、バイトである組織から、凶悪犯を捜査し、または暇な時に弱者を救うように頼まれている。これがなんだかわかりますか」
胸のポケットから、小さなバッチを出して、愛に見せた。
「さあ…」
「CIAです」
「し、CIA?」
「元諜報員です。あなたの父親なら島根県で漁師をしている。少し前まで都内に、地元で捕れた魚を料理する店を構えていたけど体調を崩して島根に帰った。その店を譲られた蕎麦の職人さんのはからいで、冬だけ島根の魚を持って都内の蕎麦屋で働いている。僕が店に客として行き、雑談をした。再婚はしていなくて、娘がいるから会いたいけど、合わせる顔がないし、もう名前も忘れてしまった、と言っていた」
「えっと…CIA…」
愛が動揺しているのを見て、説明を続ける。
「元です。アメリカで偶然CIAに親友が出来た。カフェバーで意気投合した男が、たまたまCIAの男だった。その彼に諜報員としての技術を教わった。人員不足の時に、特別待遇で一時的に就職した。日本で言うと、契約社員みたいな感じかな。すぐに辞めて帰国。今はフリーのカメラマンです。ただ、その彼が資産家の息子で遺産をがっぽり持ってる諜報員でね。お金を送金してくる。だから生活はとても楽です。君が、子供を育てるのになんの苦労もいらない。今からお付き合いしたとして、君が他の男と寝たければ寝てもいいけど、その百倍、僕を愛してくれたらその性癖も治るでしょう」
「あなたもアメリカで悪いことをした過去があって、わたしみたいな淫乱じゃないと結婚できないから、わたしを選んだってことね。だったらいいかな」
「違う」
神眼は、愛に顔を寄せて、
「カフェで一目惚れをした。君の男性経験の話は知らなかった」
と語気を強めて言った。続く言葉は、
「それでもいいので、結婚を前提にお付き合いしてください」
と頭を少し下げた。
「ほ、本当に?」
「どうしたら信じてくれますか。では、これが僕のマンションの合鍵です」
と言い、彼女に手のひらに置いた。
「妙なルートでお金が届くけど、部屋は普通に散らかった男の部屋です。アイドルの写真集もあるから笑ってください。掃除得意ですか」
「普通に」
「家事をしてくれた後、笑顔をくれた後、抱きしめたいけどいいですか」
「う、うん…」
「ありがとう。君がいたから僕は死ぬのを何度もやめた。だから、その性癖の過去は気にしない。一生愛します」
神眼の言葉に、愛は泣きじゃくり、何度も頷いた。愛は以前から好意を持っていた彼を一瞬で愛してしまった。
二人はその日から交際を始めた。
神眼が元諜報員なのは二人だけの秘密。
愛が、誰とでも寝ることもほとんどなくなった。
それから数年たったが神眼の素性が分からず、結婚に反対する横川愛の母親を説得して、ようやく婚約したばかりだった。
桑田ひろ子が愛を見たその日、愛の薬指には婚約指輪が光っていた。

アメリカ、バージニア州リッチモンド。初春。
森林に囲まれた高台にある小さな一軒家は、研究所も兼ねていて、その一軒家の診察室に神眼はいた。六年前、横川愛に告白する前だった。
脳科学の権威、カルロス・トーマス博士は、ある手紙に目を通し、
「CIAのマーク・ハリソン氏からの紹介のカミメマサル。日本人。私は引退した身だし、CIAともなんら関わった事がない。古くなった車をレクサスに替えてくれると言うから、一応、君の話を聞こう」
と言い、椅子を回転させて、PCを立ち上げた。
「僕はCIAの人間ではありません。彼とはカフェバーで意気投合しただけで」
「CIAの人間が一般人と利害関係なく意気投合することはない」
「日本ではカメラマンをしている。マークは、僕が持っていた日本のニコンに興味を示した。アップルじゃないスマートフォンにも。彼は日本の製品が好きだと言った。その日は非番だったんです。カフェバーで偶然出会ったのは本当です」
「それで?」
「僕がニューヨークで撮影したストリート写真に、ロシアンマフィアの男が写っていた」
「なるほど…」
博士が少しだけ頷いた。
「ボスはもちろん、その仲間たちも。FBIの裏切り者。アジトまでの道。何もかも撮影してあった」
「ほう。一介の日本人カメラマンが潜入捜査でもしたのかね」
「僕の遺伝子が凶悪と戦いたい。または殺したいと勝手に働いたのです」
神眼はそう答えると、目に涙を滲ませた。
「そのマフィアに狙われているのか」
「いいえ。マークらが一掃しました」
「お手柄だったじゃないか。なぜ泣くのだね。日本に帰国できなくなったとか」
「いいえ」
さかんに首を左右に振る神眼を父親の目で見つめた博士は、
「恋人が日本にいるんだね」
と優しく言った。
神眼は黙って頷いた。
「何度も自殺しようとした僕を救ってくれた笑顔の素敵なウエイトレスの学生です。もう卒業しているかもしれません。僕は彼女に告白をしてそれで振られたら、人生を変えようと思っている。または死ぬか」
「女にその気がなければ、君がどんなにお金持ちの男でもふられるよ」
博士が笑った。
「彼女は、僕に積極的に話しかけてくる。他の客とは別に」
「自意識過剰の診断をしておく」
博士は冗談めかしてそう言うと、PCの中にあるまっさらなカルテにそのことを書いた。
「僕の父は日本で三人の人を殺し、死刑になった」
神眼の言葉に博士の顔色が変わった。
「なんだって?」
「母は父の死刑が確定した後に自殺。僕の脳を調べてください。博士はサイコパス脳の権威。僕がサイコパスだったら、彼女をあきらめます」
博士は頷いて、神眼の脳をCTスキャンした。
「これが別の人のサイコパスの脳。ここに欠陥がある。傍辺縁系と呼ばれる部位だ。認知症の患者のように委縮している。この部分が未発達な人間はサイコパスに多い。他にも特性があり、周囲を観察する能力も欠落してくる。陰謀論を吹聴する人たちのように、自分だけが正しく、自分だけしか見えなくなる傾向が強い。車の運転中は、周りが見えなくなる。信号機も歩道を歩いている人も見えずに、ひき殺しても気づかない時がある」
PC上で脳の画像を見せながら説明した。次に自分の脳の画像が出てくるのかと思うと、神眼は緊張のあまりに震えてきた。
「車の運転中に人にぶつかりそうになると止まってくれる最新型の車が欲しかった。ありがとう」
「はい?」
「これは私の脳だ」
博士が苦笑いをした。
「は、博士がサイコパス?」
「そうだ。ある日、殺人鬼の脳の画像をサイコパスだと学会に提出したら、それは整理ミスで違う人間の脳の画像だった。なんとその脳は私の脳だった。恥ずかしさのあまり寿命が十年は縮まったし、絶望した。幸い、人も殺していなくて家族もいて幸せに暮らしている。ただ、少年時代は暴力的だったと記憶している。それを母親や友人たちが必死になだめていた。私は幸運だった。イライラしている時の車の運転で事故を起こしかけた時も隣に妻が座っていて助かった」
博士はいったん言葉を止めると、椅子を回転させて、神眼の目をじっと見た。
「日本からきた、もう一人の息子よ」
親しみを込めた言葉を作った。
「画像は見ない方がいい。私は自分がサイコパスとは知らずに妻にプロポーズをして、何もかも上手くいった。まさに奇跡だ。君にその奇跡が起こる方を選んでほしい」
人生経験が豊富な父親が、悩んでいる息子を励ますように言い、肩に手を置いた。神眼には、博士が本当の父親に見えた。
「君はここにきてからずっと礼儀正しく謙虚で、とても優しい目をしている。空気も読めるから統合失調症でもない。脳の画像がもし、私と同じでも君は私よりも穏やかだ。脳は検査する必要はない。日本にいる恋しい人に告白しなさい。彼女の名前は?」
「アイ」
「意味はなんだね。どこかで聞いたことがある日本語だ」
「loveです」
「素晴らしい。幸運を祈っている。また遊びに来なさい。私が生きているうちに」
博士の言葉に涙を流した神眼は、何度もお礼を言い、研究所を後にし、アメリカから日本に帰国した。そして帰国後、すぐに横川愛に告白したのだった。

カルロス・トーマス博士は、神眼優が研究所から出て行った後、彼の脳の画像をじっと見ていた。
――アインシュタインの脳に似ているが、サイコパスの特性もある。理性があるのは恋をしているからか。
博士はため息を吐き、また「幸運を祈っている」と呟いた。




普段は自己啓発をやっていますが、小説、写真が死ぬほど好きです。サポートしていただいたら、どんどん撮影でき、書けます。また、イラストなどの絵も好きなので、表紙に使うクリエイターの方も積極的にサポートしていきます。よろしくお願いします。