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スーパーなヒーローについてのお話

映画『アベンジャーズ/エンドゲーム』が公開された時に、ヒーローものを見たことがないという話を友達にした。

MARVELもDCコミックスも何も知らないわたしは、「バットマン」はMARVEL作品だと思っていたし、アベンジャーズの中にいるんだとも思っていた。
そうじゃないという事実を聞いて、ヒーローにも種類があって所属があるんだ。と、なんだかちょっとだけ寂しかった。
それでも、MARVELやDCコミックス、それからアバレンジャーや仮面ライダーみたいな色々なヒーローものが今もずっと幅広い世代に愛されてるということは、それなりに人々がヒーローを求め続けているということなんだろう。

今日話したいことはそれに関することなんだけど、上にも書いた通りわたしはあんまりヒーローを求めていない傾向にある。と思ってた。
だけど、よくよく考えてみると、わたしはヒーローを求めていないわけじゃない。日常生活において、もうすでに救われてるんだと思う。だから自分の世界の外にあるスーパーヒーローはあんまり必要ない。

ついこの前、1日webインターンを受けた日があった。8:30〜18:00までパソコンに張り付きっぱなしで、緊張もしていたし、なかなか働かない自分の脳みそに嫌気がさした。

いつもならできそうなことができないことも、自分の限界に気付かされることも、苦痛だった。

いつもは気まぐれに好きなことだけ書いて、思いついたことをやって、創作したものが人の心に刺さったときは人がリアクションをくれる。
けど、社会は全然優しくないし、わたしのことなんか認めてもくれない。

その日は、ただの、現実だった。

しゅんとなりながら家族とご飯を食べたけど、どうだった?と聞かれたあとには声より先に涙の方が出ちゃいそうだった。
もう本当に何もやりたくなくって、部屋にこもってアイスを食べながらYouTubeを見てたんだけど、たまたまその時間に、いつも見ているお気に入りのゲーム実況が配信中だった。

わたしはゲームに詳しくないし、ゲームは全然やらないんだけど、なぜかその配信はよく見ちゃう。
実況者の声と喋り方と笑い方が好きなのはお気に入りの大きな要因なんだけど、なによりもそのゲーム実況はわたしを「優しさ」で満たしてくれる。んだと思う。多分。
その人はよく小さい子(中学生とか)とボイスチャットを繋いでゲームをしていて、それを配信している。
中学生の無邪気なマシンガントークにも笑いながら相槌をうって、質問して会話が成り立たなくても否定しないで笑いながら聞いて、それから話す。

多分だけど、これ、全人類はできない。

無邪気なマシンガントークも、話したいことを話し続けることも、心の奥底ではわたしがいつもやりたいことなのかもしれないなと動画を見ていて思った。
それなのにこの世界は、「需要」とか「効率」という言葉を使って人々を窓のない小さな小さな部屋に閉じ込めてしまうことがある。
だから息苦しくなることも多いし、やりたいこと、聞いて欲しいこと、言いたいことが世の中の需要と合致してなければその感情は押し込めないといけなかったりもする。

配信中に動画を見ても、自分が相槌を打ってもらっているわけでもなければ、笑いながら話を聞いてもらってるわけでもない。

それでもいつも彼はわたしの小さな窓を開けて換気してくれる。
そう、誰かをこうやって肯定している人の優しさに触れると、自分の優しい気持ちが増える気がする。つまり、「優しい気持ち」は簡単に伝染して、増えていく。誰かに優しさをあげても、あげた人が持つ優しさは決して減らないのだ。

これを知っていて、優しさを「もったいない」と思わない人のことを、わたしはスーパーヒーローだと思う。

いつもは気づかないだけで本当はみんなマスクをかぶってないヒーローに救われてるんじゃないかな。なんてそれっぽいことをいってみる。

だから、いつも優しさを配ってる人の心にも優しさを当たり前に伝染させて増やしてあげられるような自分でいたいな、と思うし誰かの心の窓を開けてあげたい。

むずかしいけど、だから、自分の言葉でなにかを書くことにも意味があるんだろうなと信じている。
それから、どこかでこれが誰かの優しさに繋がってますように、優しさの輪が広がりますように。

なんて願ってみるのは、少しだけ大袈裟でかっこつけすぎかな?笑

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