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ここの席、座ってもいいですか?

「好きなこととかありますか?」

「文章を書くのが好きです。」

「えー、どんな文章書くんですか?」

「(詩を書くのが好きです、というには、詩のことを知らなさすぎるし、果たしてわたしは本当に詩を書いているって胸を張って言えるの?)・・・ことばを使った作品作りが好きです。」

これまでに幾度となく繰り返されたであろうこのやりとり。

わたし、はわたしが書く文章のジャンルがずっとわからないままでいた。どんな文章、と聞かれて上手に答えられないわたしは、わたしのわたしの書いたもののことを「作品」と呼んで誤魔化していた。誤魔化している間、わたしはずっとわたしに嘘をついていたような気分だった。じぶんの書いている文章は好きだけど、誤魔化している間ずっと、どこかでじぶんの文章を認めてあげられていないような気がしていた。

そんなモヤモヤは、唐突に終わりを迎えた。

わたしはじぶんの文章のことを、どうやら、詩と呼んでも良いらしい。

わたしが今学期受講している「近現代日本文学」という授業では、詩をテーマとして扱っている。学問として詩を学ぶのは初めてのことで、やっとできるって気持ちと、なんで今までやらなかったんだろうって気持ち。今日は口語自由詩の登場について学んだ。これまでの五七調などの目に見える定型、文語、リズムを手放した過去の詩人たちは、わかる人にしかわからない、精神的なリズムを感じてほしいということをもとにして詩を書いていた。それが口語自由詩の登場だった。

わたしは教授に質問をした。

「目に見える定型、文語、リズムがなくなってしまったら、目に見えたかたちではどれが詩で、どれが散文なのかわからなくなってしまうと思います。そんな中で、これは詩でこれは散文、というくくりはどのようにして決まるのですか?読んだ人が決めるんですか?それとも書いた人?」

「それはですね、発表の方法、つまり書いた人が世にどのようにしてその作品を出したかによります。書いた人が口語自由詩です、って出したらそれは口語自由詩だし、散文です、って書いたらそれは散文。」

そっか、じゃあ、わたしが、わかる人にしかわからないかもしれないけれど、文章の中でなにか精神的なリズムを感じてほしい、わかってほしい、と思いながら書いたら、それは口語自由詩なのか。

こんな簡単に認めてよかったのか、と拍子抜けしてしまった。でも、嬉しかった。今までじぶんのいる場所がわからなくて、ずっとキョロキョロと周りを見ながら歩き続けていたようなものだったから。

そんなこんなで、わたしは口語自由詩と書かれた席に座ることができるようになったのだった。じぶんの文章を「こうごじゆうしです」と紹介するのはちょっとだけ恥ずかしいけど、なんか少し安心したし、またここから今までとはちがうような世界の見方も試してみたいな、なんてことを考えた。

ていうこれは、散文です。今日はこれでおわり。





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