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がんばる、にもきっといろいろある

こんばんは、ユキノです

今日はちゃんと予定通り、朝にエントリーシートを提出した後、久しぶりに大学に向かった。中央線は人が少なくて空いていたけど、あえて座らずに窓の外をずっと眺めていた。いつもみたいにイヤホンはしていたけれど、聞きたい曲を決められないまま、薄くなった電車の音が耳の中に流れ込んでいた。

これまで好きだった音楽を聞くのが、なんとなくつまらなくて味気のないものに感じられている、さいきんずっと。aikoもチャットモンチーも聞けなくなってしまって、なんとなく、つまらない。じぶんのことを作り上げてきた音楽たちだったのに、いまはあんまり聞きたくない。就活でじぶんのことを否定されることが多いからなのかな、じぶんがわからなくなっているからかな、そんな音楽が好きなじぶんを受け入れられないからかな、それよりももっと単純で、音楽の好みが変わった、ってだけだったら良いな。

学校についてからは、思ったよりも人がいなかった芝生に座って光合成をした。このくらいの暖かさが一生続けば良いのにと思う。誰にも触れたくないほどに暑い夏がくるのも、誰かに触れていないと温度を保てないような冬がくるのも、やっぱり耐えられない。ひとりでも過ごせるけど、人と過ごしても心地がいい優しい春のまんまがいい、ずっと。

人と一緒に過ごすためには、がんばらなきゃいけないことがたくさんある。

昨日、「がんばる」ということについて考えていた。きっかけは、吃音を持つ人の記事をなんとなく読んでいたから。吃音は、本人の努力次第でなんとかなるって考えられてしまうことがある。だから、「がんばれ」ってみんな簡単に言う。

もうすでにがんばっていることだって、がんばってもどうにもならないことがあることだって、わかってもらえていないことがある。

さいきん大学から「オンライン授業エチケット」というメールが届いた。カメラはオンに、zoomの名前はローマ字の氏名に、授業に相応しい環境と身なりを、などのオンラインで授業を受けるに当たってのマナーが書かれていた。

こんなメールが届くということは、理由があったんだろう。わたしも実際にオンラインで授業を受けていて、ブレイクアウトルームで少人数でディスカッションをするときに誰もカメラをオンにしてくれなくて、ちゃんと話をしてくれなくて、悲しい気持ちになったことがある。得意じゃない英語開講の授業では、カメラオフで上手に話せないことを気にして黙ってしまったこともあって、きっと誰かに悲しい思いをさせてしまったこともある。

でも、大学からのメールに少しだけもやもやしたのも正直な気持ちだった。

カメラをオンにしていない人はみんな、がんばっていないんだろうか。

スウェットで授業を受けている人はみんな、がんばっていないんだろうか。

「がんばる」ことにはいろんな形があるだろうし、じぶんとは違う「がんばり」の形を持つ人がいることを理解しなければいけないのかもしれないと思った。

積極的な発言をすること、わからなくても思ったことを言ってみること、授業時間外で学びを深めて授業に臨むこと、それから、ある人にとっては授業に参加すること、これらがもしかしたら大きながんばりをともなっているかもしれない。

もちろん、誰かと生きるためには、がんばることが求められることがある。一緒に何かをしたり、一緒に過ごしたりするためには、お互いの当たり前の基準値をすり合わせる必要がある。じぶんのがんばりと誰かのがんばりを天秤にかけて、じぶんのことを慰めたり、誰かのことを責めたくなったりするときもある。

それでも、少しだけ、もうすでにがんばっていること、それから、がんばってもどうにもならないことの可能性についても考えてみるという余裕が、日常に、人と生きるときに、必要かもしれないと思った。






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