誰のための悪(11/26 1週間の気になった記事)
今週もやっていきます。
週刊誌のコタツ記事ですが、話を始めるにはここからでいいだろ、と言うことで。
記事の概要
この記事は羽生結弦さんが離婚をされた際に、メディアによる許可のない取材や報道によって生活空間が侵されている、と述べたことに対して、江川紹子氏が反論したもの。簡潔にまとめると以下の通り(僕が取り上げたい論点を抜粋)。
僕が言いたいことは以下の通り
・一般論としては正しいけれど
・「悪」になる覚悟はあるのか
・その取材は誰のどんな利益になるのか
1つ1つやっていきます。
一般論としては正しいけれど
「ジャーナリズムとは報じられたくないことを報じることだ」
まず、「許可のない取材や報道」について言えば、必要です。それも江川さんが言ったことに同意するものです。許可による取材や報道しかできないのであれば、それは報道ではなく「広報」です。リアルで自分のことを知っている人は、一度はジョージ・オーウェル(『1984年』の作者)の名言を聞いたことかと思います。(と思ったけど、調べてみると出典不明らしい)
ジャーナリズムを一言で言えばこれだと思います。広報もジャーナリズムも人に何かを伝えることまでは基本的に一緒です。しかし、伝える内容が大きく異なります。広報とは、基本的に対象者(物)をよく見せるために行われる物です。一方で、ジャーナリズムでは報じることでその対象者が不利益を被ることはザラにあります。それでも、新聞などが報じることがある。なぜかについては後段でまた触れようと思います。
ジャーナリズムの原則と倫理綱領
ここでBill Kovachらが作成した「ジャーナリズムの原則」や新聞協会の「新聞倫理綱領」を見てみましょう。ジャーナリズムとは何か、についてより深く理解できると思います。まずは「ジャーナリズムの原則」から。
ちなみになんですけど、これは元々9つの原則だったんですよね。10個目の原則は近年のSNS発展を受けて追記された物です。個人がニュースを発信する際であっても責任を持ってほしいことが明記されています。
新聞倫理綱領(項目抜粋)
まあ、当たり前のことが書いてはあります(原則だし)。今回、唐突にこれを引用したのは、次の段落で話したい内容に関連してくるからです。それでは本題に向かいましょう。
「悪」になる覚悟はあるのか
記者は一次(時)的には悪である
これは、僕自身が今まで取材活動をしてきた中で感じてきたことです。
この話をする前に、世の中の人間の種類を整理しましょう。人種ではありません。世の中には3種類の人間がいます。giver(与える人)とtaker(奪う人)、そして、そのどちらでもないmatcherです。
記者ってこの3種類に区分けするとしたら絶対takerです。だって人から情報もらうことしか考えていないから。そして情報をもらった見返りを与えることはありません。基本的な取材であれば金銭のやり取りが生じない、というのが界隈のコンセンサスになっています。
まあ、これには複雑な理由とか、力関係の保ち方とか色々絡んでくるんですが…また、最近では複雑なデータ記事の監修に関わった人にお礼を支払うことはあるようです。あと、連載物とかはおそらくお金のやり取りはあるでしょう(確信はない)。ですが、あくまで取材の基本はお金のやり取りを介さない。つまり情報を一方的に受け取り、それを記事にして利益に変換していると言えます。つまり、取材対象から一方的に搾取していると言っても過言ではありません。
これが、僕が記者は一次(時)的には悪であると考える理由です。
社会に発信し、読まれることで初めて価値がある
当たり前だけどすごく大事なことです。僕自身、これまで何度も取材をしてきて、取材相手に何回も時間を取らせました。時には、自分の下調べ不足で、大事なことを聞き逃し、自分のミスでもう一度話を聞きに行かないといけない、なんていう状況も起こります。
それでも記者という職業が必要であると考えるには、次のような思考をするしかありません。「僕はこの人の30分を取る代わりに、他の場面での60分を節約しているのだ」と。
例えば、専門家から話を伺い、それを記事にすることで、他の人の調べる手間が省けます。あるいは、記者が代表して質問することで、同じ質問を何回も繰り返してしまうことを防げるかもしれません。そうやって、情報を融通する役割を担うことで、社会の情報インフラを最高効率で動かしていく。それがメディアの役割の1つだと考えます。
そのために、メディアは自らtakerの「業を背負っている」とでも言えばいいんでしょうか。取材してから記事化するまでの間、一方的なtakerになることを甘んじて受け入れ、発信者としての段階になってやっとgiverになれる。だけどそのgiveする情報は決して自前のものではなく、よそから仕入れてきたもの。この社会において、純粋な生産者ではないことの後ろめたさは尋常じゃありません。
記者は天国にいけない?
だから江川さんがおっしゃった
これに対する僕の回答は以下の通りです。
そもそも「取材自体が悪である」。なぜならそれはどんな形態であれ、人の時間を奪うものだから。もし、取材対象が自ら進んで時間を差し出すのであれば、それは取材ではなく「広報」ではないか疑う必要がある。
その悪が許容されているのは、それが「取材対象者以外」の大多数の人々にとって利益に繋がるから。記者は純粋な善人には一生なれません。だから、一時的とはいえ「悪」になる覚悟のない人間に、記者は一生務まりません。「善意の道で舗装されている」だなんて思わないでくれ。「悪だ」と批判されることはむしろ褒め言葉として受け取るくらいがちょうどいいと思います。一種の義賊と呼んでもいいかもしれない。
文藝春秋には「記者は天国に行けない」という刺激的なタイトルをした連載があるのですが、その僕なりの解釈を今お見せしました。
ついでに言うと、取材できて当たり前、なんて思ったら記者は終わりだと思います。政治家や警察官に対して付き纏いかのように取材することは日常茶飯事ですが、それは一刻一刻が戦場でなくてはならないと思います。いうても同じ記事を書くなら悪事を働く時間(取材)は少ない方がいいですからね。
あと、取材による罪悪感をなくすために、取材対象者とわざと「持ちつ持たれつ」の関係になる場合が非常に多いですね。「取材対象者と信頼関係を築く」とよく翻訳されるのですが。よくあるのは記者の側から取材対象者に情報を渡すという事例です。政治家に聞かれて自分の意見を述べて参考にしてもらうくらいなら全然いいんですけど、どこまでやり取りがあるかは完全にブラックボックスですからね。気づいたら政治家に渡すために情報を得ている(悪事を働く)、なんてなったら最悪ですからね。
その取材は誰のどんな利益になるのか
さて、残りの2つです。とはいっても言いたいことは上に書いたので、勘のいい人はもうわかりますかね。
先ほど、取材自体が悪であると話しました。その悪が許容されるのは「取材対象者以外」の大多数の利益になるからだと。上記の江川さんの意見は、総じて取材による「悪」から目を背けたものです。
今回の悪事によって、1つの家庭を壊しました。それに見合った利益はあったのでしょうか。はっきり言って大多数の人にとっての関心事ではありません。
記者の取材っていうのは、昔からシビアな結果論だと思います。僕個人は盗聴器仕掛けようがオフレコ破ろうが、それが大多数の人にとって利益になるのならやれ、という過激派です。
というか、記者の持つ権力って相当大きい。「権力の監視ができるくらい」大きいんです。ジャーナリズムの原則にも
と書いてあります。本来は権力の監視のために振るわれなければならない強烈なパワーを、たかが一個人に向けた。別に悪いことしていないのに。この字面だけで本当はやったことの意味がわからなければならない。
まあ、わかってなさそうだから書いているんですけどね。
というわけで、今週は以上です。