鬱という病気について考えたこと

鬱になって約1年が過ぎました。
鬱になる前は「甘え」とか「サボり」なんて言われているのをネットで見ては、自分も「弱い人間が逃げるために言ってるだけ」と思っていました。
鬱になって初めてわかりました。
鬱=「死にたいのに、長い間死ねない苦痛を味わう事」なのだと思います。
私個人の考えですが、欝の症状で辛いのは死にたいから死のうと思うのに「家族」「子供」「仕事」「親」「ローン」「迷惑」「痛み」等の抱えているものがあることで、死に踏み出せない葛藤とできるなら辛い死に方はしたくないという甘えが、死ぬための邪魔をしていることだと思います。
「死にたい。」だけれど、抱えているものが多すぎて死ねません。何も抱えていなければ、何も考えずに、痛くない死に方を選びます。(イタリアなどでは自殺ほう助が行われています。)
抱えているものが多すぎて死ねないんですよ。
つまり、鬱になって辛いのではなく。死にたいのに死ねないことが辛いんです。自殺できる人は「羨ましいな」と私は思います。責任や義務から、目を背けた人か、そう言ったものが何もない未成年や独り身の人なのではないかなと思うからです。死について1日に何度も考えます。でも、行動には移せません。責任を感じてしまうから。
この【死にたい】→【死ねない】→【なにか死ぬ方法はないか】→【何もない】→【死にたい】、、、コレの繰り返しを毎日何十回と繰り返しています。
死ぬ方法を模索しては、楽な方法は何も無いことに絶望し、「早く死ねますように。」と願って眠ります。
1年間で学んだことは、自殺するのには覚悟が必要だと言うこと。そして、鬱は、「脳の病気」と言っている医師がいましたが、脳や体などが「おかしい」なんだと思います。

こんなことを書いても、意味はないと思います。
自分の目標は「早く死ぬ」です。
欝の人。どうですか?欝の人は完治しましたか
。私は完治なんてないと思っています。「死にたい気持ちがなくなる」→「完治した。」ではなく、「死にたい気持ちが高まる」→「自殺」が欝の人の終わりなのではないでしょうか。終わりが1日でも早く迎えられますように。

                     

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