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理解というのは驕りかもしれない。

はーい。個人的な価値観というか、ふとした思考のお時間です。

個人的にさ、

理解はできるが共感はできない

という言葉をよく使う。
言葉の意味としては理解できるが、
僕の価値観には無いよ。と伝えるときに使ってしまう。

でも、ふと。
ほんと、ふとなんだけど、

そもそも、「理解できる」が驕りなのかもしれない。
この、理解が何を指してるかって

・言外の
・行間を読む

此処。言葉の意味ではなく、真意や意図。
本当は読めてないんじゃなかろうかと、
唐突に思うことがある。

何故か。

己のことも理解するのに苦労するから。

役者やってると、色んな人を自然と観察するし、
知らない人の会話にも、失礼ながら耳を傾けることもしばしばある。
これは、かなーり個人的な話だけど、
僕の場合は、意図して観察していたり、視ているわけではなく、感じているが近い。
僕の足りない部分だね。

で、だ。
人は自然とカテゴリーにわける癖がある。
性格のパターンや、このタイプってこういう人間に多いよね。とか、関係性や立場とか。

でもさ、ふとね。ほんと、ふと、それでいいのか。って思うんだよ。

想像が足りてないんじゃないかって。
例えば、毎日笑顔に過ごしている穏やかな人は、
実は家で、一人のときはめちゃくちゃ泣いてるかもしれないし、
毎日、怒ってる人だって実は孤独を感じているかもしれない。

そんなことを、ふと想像してしまう。
もちろん、他人に見せない側面なんだから正解なんて、わかるわけもないんだけど、
その蓄積や経験が「理解した気になる」のかな。と思わなくもない。

例えば、占いやメンタリズムみたいなもので、イラッとしてしまうことがあるとすれば、
その統計から型にはめられる違和感からくるのかな。とか。
(夢占いやってる僕が言うのはめちゃくちゃ、説得力無いけど笑)

そもそも、僕が苦手なんだよ。

「理解されてる風」が!!笑

いや、でもさ、理解されてるってことは、
それだけ、関わろうとしてくれたり、見てくれてる証拠だから、ありがたい話ではあるんだが。
なんかね、昔から苦手。

いや、そんなミステリアスな感じだしてるつもりもないし、僕は結構単純なので、わかりやすいのかもしれない。が、まーなんか苦手。

自分がそう感じてしまうからか余計、驕りなんじゃなかろうかと思うんだけど、その反面、多分、自然と僕も誰かにしてしまってるんだと思うから目も当てれないね。って話。

想像力の欠如の話は過去に記事にしたけれど、
想像力は、無限に広がるから、全部の可能性追ってたら多分、頭おかしくなる。

っていうか、

行動出来なくなるから

やりすぎもオススメはしないんだけどね。
だってさ、ほんと、死ぬほど繰り返すけど、
誰かの善は、誰かの悪だし、
誰も傷つけないなんてことは、ほぼ100%無理。

その場その場は、仮にできても、
相反する性質のタイプ揃ったらその時点で破綻するからね。

だから、時折、そういうの思い出して、ちょっと立ち止まって、ほんの少し、思考するのがいいのかもね。

所詮、相手の見えてる部分なんて一面でしかないし。

あー。そうだ。

「そんな人だとは思わなかった」

これが一番わかり易いわ。
ね、理解しきれてなかったね。ってこと。

大事なのは、多分

知ろうとすることで、理解した気になることじゃないんだろうね。

あ、特に綺麗事、言いたいとかは無いです。

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