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ふるさとを離れて
今日は私の生きてきたひとこまを、振り返って書いてみた。
私は数年前に仕事を辞めてから、月に1回くらいはふるさとに帰っている。
なんということはないが、昔からよく見慣れた風景の町を歩いていると、幼い頃を思い出す。
私は高校を卒業して、故郷を離れた。
当時は、このままでは、自分1人では何もできない、
独りになって自分のできることは自分でしたい、
自分を試してみたい、
そんな思いから、一人暮らしがしてみたかった。
18歳の私は自分の家のこととか、子どもを一人暮らしさせる父や母の本当の思い、心配とか寂しさとか考えていなかったように思う。
一方で父母は戦争を体験した世代として、人生一度きり、自分のやりたいことをして、みたいなことを言って自立を促していた感もなくはない。
だから、私は自分の思いだけで故郷を離れた。
そして、大学の近くの下宿で、一人暮らしを始めた。
しかし、下宿は同学年の女の子ばかりで夜はよく誰かの部屋でしゃべっていたし
大学は専攻が珍しかったせいか、学生は全国から集まってきて、多くの人が下宿や寮だったから、授業が終わってからもどこかで数人集まって、しゃべっていた。
だから、1人になることがあまりなかったせいか、ホームシックとか不思議となかったように思う。
そして、その後は仕事、家庭、子育てと、自分の目の前にやることがあり、それを精一杯やっている時代は故郷は遠かった。年に1〜2回帰るくらいだった。
しかし、息子が高校の卒業式を終えた日、突然、母と連絡が取れなくなった。
電話をしてもでないし、メールの返事もない、
私は何か胸騒ぎがして、急いで電車に乗り片道3時間半の故郷に帰った。
すると、
暖かい春の日に、母は厚い布団の中、パジャマの上にセーターを着込んで寝ていた。
めまいがして歩けない、ご飯が喉を通らないという母の訴え、
自分で作れないから、
食べられそうな煮魚や煮物を買ってきてと、いわれた。
私はその日は泊まって、様子を見ながら母から言われた事を済ませた。
次の日、1人母を置いていくのは気にはなりつつも、自宅のこともあり、仕方なく帰ろうとしたら、母が布団の中で人差し指を立てて
もう一晩、
と、私に言ったのは忘れられない。
何でも自分でやってしまう、あの気丈な母が、私を頼っている。
今でも思いだすと涙腺が緩んでしまいそうになる。
すぐに東京の兄も駆けつけて、その後幾つか病院を周り、末期の耳下腺癌と、診断された。
その時、私は遠いところに両親を置いて家庭を持ってしまったことに、何も疑問に思っていなかった自分を責めた。
父や母になんてさびしい思いをさせてしまったのか、
故郷の町を歩きながら、自分の生き方を後悔した。
もし、遠くの大学に進学しなかったら
もし、就職したときに故郷に戻ってきていたら、
老いていく父や母の生活の手伝いとか、話し相手くらいにはなってあげられたかもしれない。
お花見や散歩や買い物に一緒に行けたかもしれない。
もっともっと、一緒にいる時間を大切に過ごしてあげれば良かった。
今となっては、深く深く悔いている。
今年で父が亡くなって27年
母が亡くなって12年。
今はそんな父母への思いを巡らせ時々故郷へ向かう。
そして実家の掃除をしながら、父のサンダルの足音や母の大根を刻む音を思い出している。
そのあと、近くにある海の見えるお墓にお参りしながら、天国の父母に「家族みんなを見守っててね」と手を合わせている。
そんな1日を過ごして、帰ってくる時は少し心が軽くなったような気がしていたが、自粛生活の終わりが見通せないのが残念だ。
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