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書くことに救われた日

ファンレターを書きました。

有名人あてに便箋に書いて事務所に送る、昔ながらのあれのことです。たぶん、生まれて初めて書きました。


歴史的勝利に日本中が沸いた12月2日。この日は私にとって、別の意味で特別な日でした。

応援しているJリーグの川崎フロンターレ。その中で私が推しと呼ぶ唯一の人の誕生日。

本人不在の誕生日会?的なことはさっぱりできないけど、私らしくお祝いしたい。この日を大事に過ごしたい。ずっと前からそう思っていました。


なのに。

その数日前からいろいろあって、メンタルはどん底でした。

誕生日前日になっても浮上できず。大切な日をこんな精神状態で迎えてしまうことが受け入れられなくて、さらに落ち込んでいました。


誕生日当日の早朝。サッカーW杯での日本代表の偉業を目の当たりにして感情がぐちゃぐちゃになりましたが、それでも下がりきったテンションは戻らず(日本でいちばん静かに観戦してたかも)。

そんなとき、「ファンレター書こう」と思い立ちました。


ファンレターを書くこと自体はこのとき初めて思いついたのではなく、シーズンが終わったら書くと前々から決めていました。でもなんとなくハードルが高くて、手をつけていなかったんです。

その日に書こうと思った理由は、ご本人の誕生日というこの節目を逃したら、ずるずると書かないままになってしまいそうだと思ったのがひとつ。もうひとつは、消印の日付が誕生日ってちょっと素敵かも、という自己満です。


ハードル高く感じていたのに、いざ書き始めるとすぐに没頭しました。

書けたことがうれしくて、短い手紙を何度も何度も読み返して。郵便局をはしごして切手を選び、封をして投函するまでのすべてが幸せな作業でした。

そして、ずっと消えなかったもやもやが軽くなっていることに、後になって気づきました。


選手に宛ててメッセージを書くその時間は、同時に、書いている私自身のための時間でもありました。もちろん読んでもらいたいし、読んでもらえる前提で書いているんですが、私のファンレターは投函された時点で役目をひとつ果たしたんだと思います。

noteも同じですよね。自分のために書く。「読まれてなんぼ」とか「読み手のことを考えて書く」のは正なんだろうけど、書いて推敲して投稿するそれ自体に意味がある、という考えもきっと正しいんです。


私にはフロンターレの話で盛り上がれる仲間もいないし、SNSを使った推し活も全然うまくできない。ひとりで想い、ひとりで追いかけているだけ。外から見たら、私がその選手のことが大好きで応援している事実なんてきっとないに等しいのでしょう。

それでも私はまぎれもなくファンなんだこんなに好きなんだ。ファンレターを書きながら、私は選手だけでなく自分に対してもエールを送っていたのかもしれません。


推し選手を想い言葉を紡いだ誕生日。私は私らしく、大切な日をお祝いしました。

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