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noteの投稿を重ねるごとに実感する、アウトプットの威力

日々、数え切れないほどさまざまなことに対するさまざまな思いが、頭の中や心の中をぐるぐる回っています。

その中には、年単位でぐるぐる回り続けているものも少なくありません。

さらに、その中の多くは、だれにも話したことのない思いです。


そんな思いをたまに、noteの題材にしてみたりしています。

だれにも話したことがないことをネットに書き込むのは、実名ではないとはいえ勇気がいります。

ただ、書いてみるとほぼ毎回「書いて良かった!」と思います。

そして同時に、「外に出すこと(アウトプット)」によってこんなにも、気持ちや見え方が変わるのかと驚きます。

長年抱えてきた思い。自分の中を何度も回っているうちに、最初はぼんやりとしたものであっても、だんだん整理されて輪郭がはっきりしてきます。時間をかけて熟成されている、とも言えるかもしれません。

そのようにゆっくり熟成された思いが、たった一回のアウトプットによって(それまでのゆっくりさから考えると)劇的に進展する、そんな感覚をnoteで味わってきました。


いくつか例を挙げてみます。


・長年抱えていた思いが、確信になった。

それは「私がそんなにだめな人間じゃない証拠」が詰まった箱。勇気を出したことだったり、努力して目標を達成したことだったり、「私が」したことが入った箱です。自分はだめな人間だと思いながらも、変わりたくて、成長したくて、必死でもがいてきました。その積み重ねが「箱」として、私の中に認識できるまでになりました。この箱こそが、私の自己肯定感だと思っています。
私が勝手に「根っこ」のイメージを持っている、幼い頃から育まれた健全な自己肯定感とはきっと違うのでしょう。それでも私は私の自己肯定感が愛しい。

「自己肯定感ってなんの意味があるんだろう」「そもそも自己肯定感ってなに?」「自己肯定感があれば、私はもっと楽に人生を過ごせているのかな」・・・等々。

「自己肯定感」は十年、二十年単位で私の中を回り続けているテーマです。果てしなく回り続けているので、かなり自分の中で整理されて言語化できていると思います。

この記事を書いたときも、頭の中にほぼ完成された文面としてあったものをそのままタイピングしたような感覚でした。

でも、文面が頭の中にあるのと、外に出た文面を眺めているのと、全然違うのです。説得力が違う。

「世間一般で言うものとは違うかもしれないけれど、私にも自己肯定感がある」。自信を持ってそう思え、十年、二十年ぐるぐるしていた思いに一旦の区切りをつけられたのは、noteに書いたからに他なりません。


・長年抱えていた思いに、着地点ができた。

私にとってトラウマとも言える言葉を悪気なくかけてくる人に対して、怒りの感情しかありませんでした。人見知りで口下手なことがどれだけ苦しいかわからないのか、と。

ただ、冷静になってよく考えてみると、決して「おとなしい」と言ってくる人が問題なのではないような気がしてきました。
自戒を込めて書きますが、「おとなしい」と言われて傷つく人ほど、その人こそが「おとなしい」という言葉に対してネガティブなイメージを持っているのではないでしょうか。そして、その言葉をかけられたときに、拒否反応が過剰に出てしまうのではないでしょうか。

記事募集をきっかけに書いた、言われるのが大嫌いな言葉「おとなしい」についての記事。

「おとなしい」と言われるのが辛くて仕方なかったけれど、自分自身の劣等感や「おとなしい」という言葉に対する見方が自分を辛くさせているのではないか、という内容です。ただ、もともとは、「おとなしい」と言われるのが辛くて仕方ない、という趣旨だけを書くつもりだったのです。

「おとなしい」は悪口ではないからと、明らかにネガティブなニュアンスでも気軽に使ってくる。それがどれだけ傷つくことか。「おとなしい」と言われることに対する恨み辛みも、長年私の中を回り続ける思いのひとつでした。

上の引用の「ただ、冷静になってよく考えてみると~」以降は、書き始めてから頭に浮かんできました。

「おとなしい」と言われて傷つくのには自分にも原因があるのではないか、という思いも、頭の片隅にはずっとあったような気がします。顕在化されていなかったその思いが引き出されたのは、やはりアウトプットの力だと感じます。

結果、自分の「おとなしい」と言われることに対する気持ちに着地点ができました。もちろん、恨み辛みをぶちまけるだけだった当初の予定より、ずっと満足のいく記事になりました。


・長年抱えていた思いが、作品として昇華された。

集団にいるときの孤独は怖い。
でも、やることさえあれば平気。
それに集中していれば怖くない。

忍者のように隠れ蓑に身を包み、景色の一部になる。
存在感のない自分が嫌いなくせに、
こんなときには進んで存在感を手放す。

突然思い立って、短時間で仕上げた記事、というか詩です。

ひとりで過ごすのは好き。大勢の人の中でひとりでいるのも、知らない人の中であれば平気。辛いのは、知っている人ばかりいる中で、たくさんの輪ができている中で、どこの輪にも入れずひとりでいること。でもそんな辛さも、没頭できるものさえあれば和らぐ・・・。このことも、長年私の中を回り続けているテーマでした。

「隠れ蓑」というワードも、詩にすることも、突然降って湧いたようなアイデアで、なぜ思いついたのか自分でもよくわかりません。ただ、これらの降って湧いたアイデアによって、長年回り続けてきた思いは、想像もしなかった形でアウトプットされました。古くからの友人がある日突然イメチェンして垢抜けてしまったような感覚です。

そして、これも書き上げるまでは思いも寄らなかったことなのですが、自分にとってとても愛着のある作品となりました。集団の中で「隠れ蓑」に籠もる私を癒やし寄り添ってくれるような、そんな存在になっています。


「アウトプットが大事」というのはずっと前から知識としてありましたが、読んだ本の内容とか学んだことをアウトプットする、という認識しかありませんでした。自分の中をぐるぐる回っている思いをアウトプットするなんて、noteに投稿するようになるまで思いつきもしなかった。

そして、アウトプットするようになってから感じたのは、自分の中をぐるぐる回っている思いというものは、その過程で熟成され洗練されることはあっても、何かの形で外に出さない限りは宙に浮いたような状態なのだな、ということです。noteに書くようになるまでは、その「宙に浮いたような感じ」も実感としてありませんでした。たぶん、その状態が当たり前だったから。


私のnoteは内容を絞っておらず、雑多なことを思いつくまま書いています。その中でも、この「自分の中をぐるぐるしているもののアウトプット」はひとつの核として今後も大事にしていきたいです。

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