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会話中、相手を「変な人」と思ったときに読んでほしい話。 -心地いい距離感の提案-


「多様性」と言うけれど


5人くらいの集まりの中で、意見が2つに割れた。
私は少数派だった。

幼い頃から「周りが皆うなずくいわゆる多数派の意見に、なぜか自分だけ共感できない…」と(テーマ問わず)感じることが多かった。
そういう場面でいつもは何も言わない(共感も否定もしない)のだけれど、直近この言葉を見かける頻度が上がってきたので実験的に口にしてみた。


「多様性の時代だよ!少数派もいたっていいでしょ」


多数派の知人が言った。
「それ少数派の人が言うことじゃないでしょ(笑)」


引っかかった。


「少数派が言うことではない」ということは、
知人の中では
「多様性は『多数派が』『認める』もの」
と思っているのだろうなと推測した。
(そこまで考えているかは不明だが、潜在意識としてはありそうだなと思った。)

ここに強烈な違和感を覚えるのは、私の中での意識が異なるからだ。
少数派になることが多かったこれまでのシーンで、私が望んでいたこと。
それは、存在を承認されることでも否定されることでも、珍しがられることでもない。

「放っておかれること」だ。

無論全部好きにさせてくれ、放っておいてくれということではない。
例外はある。
社会生活を送る中で、そのルールを決める手段として多数決が採用されているシーン(≒少数派の意見が結果にはあまり反映されない)は無数にあるし、その存在は否定しない。

だが、個人の趣味嗜好においてはもっと伸び伸びとしていたいのだ。


小学生の頃、年下の従弟が入学に際しランドセルを選ぶ際に「ピンク」を希望した。
叔母は「男の子がピンクのランドセルは、いじめられるかもしれないよ。黒にしておこう。」と諭したという。
叔母の心配も理解できるし共感するが、当時この話を聞いて「なんでだめなんだろう…」と引っ掛かったことを今も覚えている。

あの頃ランドセルの色は「赤」「黒」が主流であったが、今はもっとカラフルな色・デザインが選択できるようになっている。
素晴らしいことだと思う。

「みんなと一緒」に安心感を覚え「出る杭は打たれる」傾向が根強くあることは幼少期~今に至るまで感じるし、まだまだ課題は山積みだが、
多様性の言葉を耳にする機会が増えてきた現在、

「みんなと違うけど私はこうしたい」
「みんなは好きじゃないって言うけど私はこれが好き」

の気持ちを各々が大切にできるような、
そんな文化を未来に向けて育んでいきたい。



ランドセルの色のみならず、
生き方の選択肢自体が増えてきている昨今。

目の前の相手の意見が多数派であろうと少数派であろうと、

「私はいいと思うよ!」と本心からではない肯定・承認をしてみたり、
(承認する・されるの関係を生むこと=好意の表明、にもならない)

「なんで??」とやたらと質問攻めにしたり、

「変なの、変わってるね」と自分の居る場所から揶揄するように眺めてみたりするのではなく、

「そうなんだ!」とただ受け止めること

必要以上に干渉しないこと。


そんな距離感を大切にすることが、
多様性を名ばかりにしないために必要なことの1つなのではないだろうか。




変だね!変わってるね!と好奇の目に晒されることの多かったこれまでを振り返り、今を生きる人々に向けて願うことを。
「人と違う」は素晴らしいことだよって、声を大にして言いたい!

最後までお読みいただきありがとうございました🧸

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