見出し画像

未読の本からも影響を受ける

 人は読んだことのない本からも影響を受ける。そんな記事を見かけ、気になっていたが、読むのを後回しにしていたら、読もうと思ったその時には記事が見当たらず、また検索しても出てこなくて、結局読むことができていない。しかし、読んでいないその記事のことをこうしてときどき思い返すことがあるのだから、「人は読んだことのない文章からも影響を受ける」のは本当だろう。

 なにかにつけて、もういい、と考えることが多くなってきた。誰もやってくれないから、もういい。どうせ何をしても楽しくないから、もういい。疲れたから、もういい。放棄的で、はじめから何もかもを諦めている。

 口に出せば人に不快な感情しか与えないこれらの発想の影響元がどこにあるかといえば、その心当たりはある。未だ読んだことがない、ペーター・ハントケの『幸せではないが、もういい』。高額な中古品しか売られていないこの作品について僕の持ち得る情報は Amazon に記載されている商品説明がすべてだ。

51歳で自殺した母。事実を前に言葉は「闇の中へ失墜する」事実と言葉をめぐる闘いの記録。ハントケ初期の代表作。

『幸せではないが、もういい』の原題は "Wunschloses Unglück"。訳せば、「欲望なき不幸」となる。強力なタイトルだと思う。現状に対する諦めなのか、あるいは肯定なのか。それは読まないかぎり知ることはできないけれど、『幸せではないが、もういい』というフレーズは暗い光をまとって、幸不幸の問題にとらわれている人間の深部に迫ってくる。

 生きていて、日々の些細な動作が身に沁みる。ああ、俺は幸せになれなかったんだな、と。感情をこらえながら話し、受話器を置いてため息をつく。スペースがあるのに誰も詰めてくれず動いてもくれない電車の中で、息が詰まる。暗い部屋でワイシャツのボタンをひとつひとつ外していると、むなしさがつのる。ああ、もう終わったんだなあ、と。

 現実に会う人よりも、出会うことのないネットの住民に影響を受けてきたのはなぜだろう。朝4時だったか、前夜に本当にくだらないことで炎上した人が「真面目に生きているのもったいないなって思っちゃった」と言っているのを聞いて、たしかにそうだと頷いた。どちらの選択肢をとっても炎上を免れなかったその人の実感が、自分の経験に重なっていた。現状を打開しようと真面目に考えても、実は真面目に考えれば考えるほど泥沼に陥っていく。真面目に生きていることは不利だと分かっていながら、結局真面目に考えてしまうのは性格の問題だろう。間違いなく、真面目に生きていくことは損だ。

 大学の頃に、損して生きていこうと決めた。そう決めたのだから、損する生き方については不満を言うまい、と心掛けてもきた。きっとだからこそ、もういい、という思考なのだ。損をしても、もういい。もういいよ。本当に。

 もういい、もういい、と考えているけども、この人生において幸せに生きることができなかったとはどういうことか? そのことについても、また考えている。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?