見出し画像

【ざっくり年表】南島原を玄関口としたキリスト教布教の歴史と、その後の日本と世界の関わりの歴史。

わが故郷、長崎県南島原市口之津は、1567年のポルトガル船来航に端を発し、明治期の石炭貿易時代には東南アジアとの窓口となり、古くから国内外の他民族が入り混じる土地であった。その後も国立の海員学校ができたことで多くの外洋航路の船員を生んできた港町。世界と綿密につながる歴史を持ちながらも、島原の乱での全滅や、三井炭鉱による発展と撤退により、血と文化の断絶を二度も被ってきている土地なのです。

以下はそのあたりの経緯を概観してみるために、まずキリスト教関連史と、その後の日本の国際政治史を、あえてざっくりとした年表にしてみたものです。江戸時代の日本は鎖国により世界から切り離されていたイメージが強いですし、欧米列強の日本侵略はペリー来航以来と思われている方も多いですが、実態としては大航海時代以降、常に世界情勢の影響を受け続け、何度も侵略のリスクを負いつつ、ギリギリの所でそれを防いできた事が理解できます。


さて、発端はイベリア半島から、大航海時代の幕開けと宗教改革によるカソリックxプロテスタントの対立でした。

1492年、ポルトガルとスペインがイベリア半島からイスラムを排除しレコンキスタが完了、逆にアフリカへ侵攻し始める(のちの植民地支配と黒人奴隷売買の端緒)。コロンブスがバハマ諸島に到着し西回りインド航路を発見したと宣言(実際はアメリカ大陸の発見)。大航海時代の幕開け。

1494年、ローマ教皇がトリデリャス条約を締結。スペインは西回りでアメリカ大陸、ポルトガルは東周りでアジアへ世界布教を開始。この非常に勝手な取り決めが元で、日本にはポルトガル船が来航することに。

1498年、ヴァスコ・ダ・ガマによるインド航路の確立。イスラム商人の妨害にあっていたヨーロッパ諸国のアジア進出が進む。

1500年、イスラム勢力圏のスエズ運河の代替として、東まわりインド航路を模索していたポルトガルのカブラルがたまたまブラジルを発見。南米大陸で唯一ポルトガル語の国が出来た理由です。

1517年、ルターの宗教改革でプロテスタントが誕生、商人の利益を是認しヨーロッパで急速に勢力を拡大。カトリックは対抗し世界布教に力を入れる。

1520年、マゼランが南アメリカ大陸南端を通過して太平洋を横断し、グァム島をへてフィリピン諸島で死亡。残った部下が旅を続け世界一周を果たす。

1543年、ポルトガル商人の乗った倭寇(中国人)の船が種子島に漂着し日本に鉄砲が伝わる。

1545年、大友氏が治めた府内に倭寇船に乗ったポルトガル人が来航。九州の諸大名が鉄砲入手のため南蛮船の来航を認めはじめる。

1549年、マラッカ経由の中国船でフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸。平戸、山口、大分で2年半にわたり布教。

1550年、平戸に初めてポルトガル船が入港。松浦氏より平戸に拠点を持つことを許されていた中国の海商、王直の手引き。日本初のキリスト教会。

1560年、織田信長、桶狭間の戦いで数倍の勢力を持つ今川義元を討ち取る。戦国時代が本格的に幕を開ける。

1562年、ポルトガル船が大村氏の横瀬浦港に入港。前年平戸で「宮の前事件」が起こりポルトガルの拠点が平戸から大村へ。大村純忠と実兄の有馬義貞は南蛮貿易を行うため、不可分の関係にあるキリスト教宣教師を招聘する。商売と富国強兵を優先し、キリスト教の布教を是認。

1563年、イエズス会の宣教師ルイス・アルメイダが口之津で布教開始。大村純忠が初のキリシタン大名に。ルイス・フロイスも大村へ上陸。

1567年、有馬義貞がポルトガル船3隻を口之津港に招き入れ貿易とキリスト布教の拠点に。451年前のこと。

1569年、ルイス・フロイスと前年に上洛を果たした信長が初対面。金平糖を進呈。彼は後に「日本史」を書きヨーロッパに伝える。

1571年、大村純忠がイエズス会に長崎港を提供。これ以降、九州における南蛮貿易は長崎が玄関口となっていく。

1579年、義貞を継いだ有馬晴信は龍造寺隆信に対抗するため南蛮貿易によって軍事・経済力を強化。乗じたヴァリニャーノは更なる布教を求め、晴信は仏教寺院を徹底的に破壊。日本初の全国宣教師会議が口之津で開催。連れられてきた黒人奴隷弥助も口之津に在住。日野江城下には荘厳な教会や修道院が建ち並び、日本初のセミナリヨ(西洋式の初等学校)も創立。西洋美術技法なども教えられている。

1580年、有馬晴信が洗礼を受ける。しかし長崎港に役割がシフトしていたため、口之津へのポルトガル船の入港はこの年が最後。

1581年、ヴァリニャーノは弥助を伴い織田信長に会い、のちに弥助は信長のもとで大名格まで登る。

1582年、6月に本能寺の変が起こり口之津に滞在中のルイス・フロイスによりヨーロッパに伝えられる。また同年2月には、日本初のヨーロッパ訪問団「天正遣欧少年使節」が長崎港から出発。大歓迎されローマ教皇に謁見。8年半後、秀吉のバレテン追放令後に帰国。

1584年、有馬晴信、イエズス会や薩摩の島津氏の支援を受け、ついに龍造寺隆信に勝利。

1587年、豊臣秀吉が貿易利権を独占し九州の大名の力を削ぐためバテレン追放令。フロイスは長崎に移住。このとき追放された宣教師が「26年後に16歳の天童が現れる」と予言。

1588年、秀吉の側近であったキリシタン大名、小西行長が宇土~天草を統治(九州平定の功績と、朝鮮出兵の水軍指揮)。天草もキリシタン(2.5万人)が庇護される。

1590年、加津佐でイエズス会総協議会が開催。日本初の金属活字本が印刷される。南蛮貿易の利で幕府に貢献し、晴信の子・直純が徳川家との姻戚関係を築くことで、禁教下でも贅を尽くした教会を建設。多くの隠れ信徒(7万人)が集まった。布教開始より49年間。多くの宣教師や貿易商人が往来、教会の鐘や、セミナリヨからはオルガンと賛美歌が聞こえた。コレジヨ(聖職者むけ大学)も有家と加津佐に設置。

1592年、秀吉の朝鮮出兵(1598年まで二度)。ヨーロッパ列強の進出を牽制し、あわよくば明を征服しようと。室町以来の明との貿易再開も意図。明との関係悪化を招いた。

1600年、関が原の戦い。西軍につき敗れた小西行長に代わって、唐津領主・寺沢広高が天草を統治。重い年貢と信仰弾圧に苦しむ。同年、オランダ船リーフデ号が大分県臼杵湾に漂着。徳川家康に謁見したウィリアム・アダムズはのちに江戸幕府外交顧問、三浦按針として浦賀に。

1609年、オランダ船乗組員の送還に寄与した松浦鎮信の好意に報い、オランダ商船二隻が平戸に入港。以後10年ほどオランダ、イギリスなどプロテスタントの貿易拠点に。薩摩藩の琉球出兵。奄美を直接支配し黒糖貿易、琉球を属国として中国貿易による利権を獲得。幕末の雄藩としての素地を構築する。

1612年、有馬晴信が失脚し処刑。息子の有馬直純は家康の近侍だったため、家督と所領を許されるが、すぐさま棄教してキリシタンを弾圧。宣教師を追放し、教会の取り壊し、領民にも棄教を迫ったが、うまく行かず移封を願い出る。

1616年、松倉重政が日野江城に入城。7年をかけ4万石としては巨大な島原城を築城し、江戸城の普請も。日野江城と原城は廃城。これが財政をひっ迫させ、そもそも飢饉状態であった農民を過重な年貢と苛烈な取立てで苦しめる。有馬失脚より25年。島原~天草の住民はなおさら、来世で救われると説くキリスト教にすがるようになる。

1637年、12月、天草四郎を旗頭とし島原の乱が勃発。築城のための重税と圧政、宗教弾圧の惨状を幕府に訴えるための蜂起。小西行長・佐々成政・加藤忠広の改易により大量に発生していた浪人や、帰農していた旧有馬家の家臣らが中心。

1638年、3ヶ月の篭城の後、島原の乱が終結。3.7万と言われる一揆軍に12万の幕府側鎮圧軍(幕府側戦費は400億円)。一揆側3.7万、幕府側1.2万人が事実なら戦国~江戸時代(多くても1万程度)で最大の戦死者数。原城跡は徹底的に破壊された。

原城の牢に繋がれていた所を幕府に捕縛され、ただひとり生き残った山田右衛門作は裏切り者との誤解があるが、妻子を含め巻き込まれた人々を救うために奮闘した人物だった。(※山田右衛門作の壮絶な人生  https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/111642/

松倉勝家は領国経営失敗と反乱惹起を問責され江戸で斬首(江戸時代の大名で唯一の斬首刑)。民衆が全滅し税が取れなくなった南島原には全国各地から入植者を斡旋。下天草では"根絶やし"ではなく"表向きの棄教"へ。幕府は大いに反省し、武断政治から文治政治への転換点となり結果的に江戸時代を延命したと言われる。結果的に島原半島にはキリスト教のおもかげは一切残らず、下天草や五島、外海、平戸などに隠れキリシタンが残る形に。

1639年、ポルトガル船の入港禁止。キリスト教の弾圧が本格化。

1641年、以降220年に及ぶ鎖国。南蛮貿易は出島にて幕府の管理下、プロテスタントのオランダのみ(イギリスは競争に負けインド重視に)に。

1661年、国力が落ちていた明に代わり、満州人の清が中国統一。敵対した明とは変わり、日清貿易(表向きは長崎、裏では琉球~薩摩も)が盛んになる。

1791年、4月(ペリー来航の62年前)和歌山県にアメリカの民間船が通商目的で初来航。

1792年、ロシアのラクスマンが根室に来航し通商を求めますが、幕府は鎖国を理由に拒絶。

1804年、9月ロシアのレザノフが漂流民送還と通商を求め長崎に来訪、拒絶。

1808年、イギリス軍艦フェートン号が長崎に侵入、燃料や食糧を要求。その後しばしば日本近海にイギリス船やアメリカ船が出没。

1812年12月17日、伊能忠敬が口之津を測量。

1825年、幕府、異国船打払令を発布。

1837年、7月に米国商船・モリソン号が浦賀に来航。日本からの漂流民送還、通商を打診するも、異国船打払令によりモリソン号は幕府と薩摩藩から砲撃された。(日本人の海外漂流件数は18世紀~明治維新までに200件以上)

1840年、清がイギリスとのアヘン戦争で大敗。薩摩藩の支配下の琉球に英仏の軍艦がたびたび上陸し、交易を迫る。

1841年、ジョン万次郎(中浜万次郎)が鳥島へ漂着。米国の捕鯨船に救助され英語や航海術を学び1851年に琉球を介して帰国。

1846年、米国東インド艦隊司令長官ビッドルが、交易を求め浦賀に来航。幕府に拒絶された。

1851年、島津斉彬が薩摩藩主になり、洋式軍備や藩営工場の設立を推進。数年後には溶鉱炉を完成させ、蒸気船や軍艦を建造。イギリスがしかけたアヘン戦争など欧米列強による危機が薩摩藩の軍備拡張に影響。

1853年、ペリーの下田来航。翌年の日米和親条約を経て4年後、長崎のみ絵踏制度の廃止の布告。

1858年、日米修好通商条約調印(関税自主権が無く、領事裁判権も認める不平等条約)くわえて居留地でのキリスト教信仰を許す。

1859年、江戸幕府は箱館、横浜、長崎(下田を閉鎖)を開港。220年の鎖国が終了する。

1861年、ロシアはユーラシア大陸の覇権を巡ってイギリスと対立。ウクライナ南部・クリミア半島でクリミア戦争に敗れたロシアは、新たな戦略として極東へ進出し、中国市場に食い込もうと画策。対馬がその前線基地として狙われた。2月にはロシア海軍の大型軍艦が修理の名目で対馬に停泊し軍事施設を建設するもイギリスの介入で断念。結果的に幕府の外交官、小栗忠順が懸念した通り、日本に対するイギリスの植民地化計画が前進することに。

1863年、尊攘派の急先鋒であった長州藩は江戸幕府に攘夷決行を約束させ、自ら下関沖を通過する外国船を砲撃。関門海峡は危険な状態に。鹿児島湾では、前年の生麦事件を発端に7隻のイギリス艦隊が来航。薩英戦争が勃発。戦後処理中に薩摩が英国から軍艦購入する形で関係が好転。

1864年、勝海舟は坂本龍馬をともない、幕命により諸外国との調停役として長崎へ2月~4月にかけ滞在。熊本経由で現在の南島原駅付近に上陸し、往復とも島原に宿泊。8月、英・仏・米・蘭の4ヵ国は長州藩への報復として下関を攻撃。

1864年イギリスでは「対日戦争計画」という日本との全面戦争が計画されていた。瀬戸内海を封鎖、京都を制圧、1万2000の兵で江戸城への攻撃し城郭を焼きはらう計画だった。しかし友好国オランダを介した諜報活動によって、幕府はイギリスの野望を事前に察知、イギリス軍艦を凌ぐ軍艦「開陽丸」を建造。結果的にイギリス議会は日本との戦争はコストが見合わないと判断。

1865年、長崎に来航するフランス人カトリックのため大浦天主堂が建立される。浦上の住民が神父に会いにくる(信徒発見)。浦上住民の9割が隠れキリシタンだと判明、明治政府により流罪にされる。坂本竜馬が亀山社中を設立。この年アメリカでは南北戦争(1861~1865)が終結。

同年、マニラで発見された銅版画「セビリアの聖母」をフランス人のプチジャン神父が日本に持ち帰り、南島原市、有家のセミナリヨで日本人の生徒が制作したものであると判明。

1866年、幕長戦争が勃発。イギリスはグラバーや坂本龍馬を介し長州へ最新の兵器を提供したり通商航路だとして下関での戦闘を自粛させたりと幕府の邪魔をし、結果的に長州が勝利する。

1867年、幕府は起死回生の策としてパリ万博に参加しフランスに接近。フランスの優れた造船技術や軍事技術を学びイギリスに対抗。しかしイギリスが銀行に働きかけフランスからの武器購入のための融資が停止。将軍・徳川慶喜は大政奉還を決意、260年以上続いた幕府が滅亡。同年、坂本竜馬が死亡。ロシアは樺太に大軍を送り込み実効支配を試みる。

1868年、明治政府が樹立される。不平等条約の撤廃が外交課題に。しかし1月に戊辰戦争が勃発。2月、イギリスの画策により欧米6か国は局外中立が宣言した事により、水面下での米仏蘭の幕府への援助が停止。前将軍・徳川慶喜は新政府に恭順。5月、江戸無血開城。

しかし新政府に対抗し成立した奥羽越列藩同盟にヨーロッパの新興国プロイセン(後のドイツ帝国)がアジア進出を期し接近、武器供与を開始。列藩同盟に金を貸しつける代償として蝦夷の権利を要求。しかしまたもイギリスの画策により新政府が新潟港封鎖。結果的に東北全土が新政府に下る。

旧幕府艦隊を率いた榎本武揚が、江戸湾から北上し箱館・五稜郭を占領。新政府に対抗。また同時期ロシアは日本との国境が未確定だった樺太・サハリンに対し住民を移住させる「ロシア化」に着手。これらの動きに対してイギリスは、ロシアと榎本が結びつき、ロシアが蝦夷に南下してくることを危惧。

1869年1月18日。再び開かれた欧米列強代表の会議で、イギリスは、自ら提案した局外中立を撤廃し、新政府に最新軍艦を提供することを画策、実行。これにより新政府艦隊が榎本艦隊を壊滅。

1871年、廃藩置県(琉球王朝が廃され琉球藩設置1872年)。同年、岩倉具視が率いる使節団が不平等条約の改正のために欧米へ行くが、宗教迫害を非難され相手にされず。しかし先進的な欧米諸国の政治制度や文化の調査をもとに日本の近代化を推し進めていく原動力に。

1873年、キリシタン禁制の中止。名目上はここで230年も続いた宗教弾圧が公式に終結。1873年7月ドイツ商船が福建省からオーストラリアに向かう途中、宮古島沖で台風のため遭難し宮古住民に救助されている。

1876年、伊藤博文らがリードする明治政府は三池の石炭を輸出するため、まだ設立準備中だった旧三井物産に払い下げた。三井物産はこれがきっかけで海外に大きく飛躍。ただし、三池は遠浅の有明海に接し大きな船が接岸できなかったため、島原半島の先端にあった天然の良港、口之津が中継港として選ばれた。(三池で燃える石=石炭が発見されたのは1469年、室町時代、応仁の乱のころ)

1877年、口之津村西大泊に生まれた萬蔵は22歳の時、外国船の船員としてカナダ南西の港に寄港中脱船して密入国。フレーザー川での鮭漁で塩漬製造・缶詰製造で財をなした。(1977年カナダ政府から「日系カナダ移民第一号」と認められた。)

1889年、大日本帝国憲法の発布で初めて「信教の自由」が認められる。

1890年頃、スウェーデン出身のピーター・ホルストロームは三井社船の船長として活躍、口之津船員の養成に尽力。船員を産む街の端緒となった。

1894年、陸奥宗光の交渉によりイギリスとのあいだで治外法権の撤廃に成功。追随した15か国から治外法権の撤廃を勝ち取った。

日清戦争に勝利。講和条件は朝鮮の独立を認め、 遼東半島・台湾・澎湖島を日本に割譲+賠償金。

1899年、台風により壊滅的な被害を受けた、与論島、沖永良部島、甑島などの島民(ピーク時1226人)が口之津に集団移住、石炭積み出しの荷役労働に従事。

1904年、日露戦争に勝利。翌年ポーツマス講和会議。

1906年、明治時代、三池炭鉱の石炭は団平船で口之津港まで運ばれ、口之津港から三井物産の船や外国船で香港・シンガポールへ輸出された。当時の石炭輸出額は長崎港の2倍の規模。船舶が港を埋め尽くし、三井支店や口之津税関も設置。162軒の商家が連なる輸出港に。

1911年、法整備や、日露戦争での勝利、戦後処理交渉などから諸外国に一目置かれる存在になり、幕末から50年あまりを経て関税自主権の回復に成功。

1939年、世界初の魚群探知機を作った古野電気商会が創業。80ヵ国以上に販売拠点を有し、船舶レーダーでは約40%の世界シェア。

1954年、口之津海員学校の設置(2001年全国8校の海員学校が統合され、現在は館山、唐津、口之津だけ)。1960年代前半には口之津町の約6割超が船員。高度成長期の日本の海運を支えた大量の外洋航路船員を輩出。


もし奇特にもサポート頂ける方がいらっしゃるようであれば、もっと役に立つ記事を書いてみようと思っています。