サイゼリヤのミラノ風ドリア
人は、他の人と関係を持ちながら生きているので、死ぬと、自分の意志と関係なく理不尽にその関係性が終わってしまう。
その、理不尽さや唐突さになんとか理由をつけて納得しようと思うのだが、理由をつけてもさみしいものはさみしい。
そしてそのさみしさはだんだん小さくなっていくように見えて、ある日唐突に、嵐のようにやってきてしまうのだ。
母が亡くなってしばらくして、ひとりでサイゼリヤに行った日に、恥ずかしいほどに泣いてしまった。
外食が好きな母は「サイゼリヤのミラノ風ドリアを食べたい」「わたしはドリアが大好き」とよく言っていた。
時間の余裕があれば連れていくし、面倒で他のお店を提案することもあった。
サイゼリヤはショッピングモールの2階にあるので、駐車場からの移動など足の悪い母を連れていくには、けっこう神経使ったからだ。
そもそも子供連れが多いショッピングモールがわたしは苦手だ。
だが今日は、どうしても額装したいポスターがあってニトリの額縁を見に行きたかった。複数のポスター並べるために、色合いや大きさを見て、おおまかなレイアウトを決めた。
もう一度家に帰ってポスターの配置を決めよう。
そこまで決めて、ショッピングモールの用事は終わった。
そしてランチ。せっかく来たんだからサイゼリヤに入ることにした。
「あ、母も来たかっただろうな」
そう思ったら、注文紙を手渡したあとに涙が出てしまった。
「こんなに安いのにすごいね、おいしいね。せっかくだからデザートもいっぱい食べよう! あかつきは若いからデザートふたつ食べるといいよ」
食べることに貪欲で、いつも目を輝かせていた母を思い出した。
ドリアではなくてハンバーグとフォカッチャを注文したけれど。
おかしいんじゃないんだろうか?
悲しいとか、そういう感情もなくただただ、涙があふれてくるのだ。
なぜだかわからない。
食べながらも涙があふれてくる。
足の悪い母にペースをあわせることに神経使っていたのに。
もう、そうじゃなくて、ひとりで好きに歩いていいのだと思っても、なぜだか涙があふれてくる。
当然だが、泣きながら食べても、おいしくはなかった。
となりの席には小さな赤ん坊を連れた夫婦がいて、夫婦は8ヶ月くらいの小さな女の子を交代で抱っこしながら食事をしていた。
ときに女の子はぐずり、ご主人が外に連れていってるあいだに奥さんが食べたり。大変そうだなあ、でも外食はしたい。その気持ちはなんとなくわかった。
わたしはもともと外食はひとりが多いので、母以外の誰かとサイゼリアに行くことなんてないのかもしれない。
そんなことを考えながら、家族連れの中の女の子を見たら、ふっと目があった。
小さく笑いかけると、その女の子は、手をバタバタさせて笑いかえしてくれた。
びっくり!
「すごい! おりこうさんね!」
隣から声をかけると、また、その言葉に反応して、手をバタバタさせて笑いかけた。
抱っこしていたお父さんが「ああ、ありがとうございます」と言ってくれたので、調子に乗って何度も笑いかけると、女の子はなんども笑い返してくれた。
「すごいね、感動してしまう!」
この子は何を知って、何を伝えるために、こんなに笑い返してくれるんだろうか?
お母さんは女の子の機嫌のいい時間ができてほっとしたように見えた。その時間に、少しゆったりした気分で外食を楽しめた様子だった。
「ねえ。ドリアくらいなら、食べさせても大丈夫かな?」
とお母さん。
「柔らかいから大丈夫と思うよ」
お父さんが答える。
言葉の意味がわかるんだろうか?
女の子が、テーブルの方に身を乗り出す。
お母さんが、もう熱くないはずのドリアを、スプーン3分の1くらい女の子の口に入れてくれた。
目を丸くして、また両手をバタバタした!
よほどおいしかったんだろう。
ふたくち目をねだって、ずっと両手をバタバタさせている。
また口に入れてもらって、何度も何度もおねだりして。
そうして女の子は、誇らしげにわたしの方に笑いかけた。
世界がどんなふうに成り立って、どういう理由でこういうことが起こるのか、わたしにはわからない。わたしはミラノ風ドリアは注文しないし。輪廻も憑依も信じない。
それでも、世界には物語が溢れている。
わたしは、理由もわからずそれを書き記し、そして書き記すことで、このさみしさを、少しずつ忘れていけるんだろう。
おかげで、ひとりでメソメソしていたわたしもすっかり泣き止んで。
さて、と、デザートのティラミスのために、注文ボタンを押した。
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