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ミドリの森10  サトミ3

※ 書きかけの小説を少しずつアップしています。
完結させるためのエネルギーにしたくて。
連作ですが、一話ずつ読めます



わたしはきっと処女のまま死ぬんだろう。

そうにちがいない、わたしは処女じゃないわたしを想像できない。出会いも何もない。わたしは死ぬまでこのままだ。処女のまま私は死ぬのだ。
なぜか、急にそう思って、息が詰まりそうになった。
いろんなところで見聞きするセックスなるものの、動作ややりとりを想像してみた。
みんなが普通にやってることなのに、自分がそんなことやるなんてとても想像できない。
そして、どんなものかも知らないことを。誰にも知られないままに朽ち果てていくのだ。
25歳になった。もう、無理だ。「はじめて」なんて言っても怖気付くだろうし、なによりも私には出会いがない。


*   *   *


ネイルサロン「ドルチェ」が閉店することになった。
といっても、本店はそのまま。わたしが勤めている駅に続くショッピングモールの2階ブースが閉鎖になるだけだ。
ミドリ店長は本店へ移動になった。

駅の西口に大きな本屋とファストファッションの店ができた。すると掌を裏返すように流れが変わった。西口のバスセンターから発着するバスも増えた。
東口の歩道橋につながるこの店の前を通る人は目に見えて少なくなっていった。

かれこれ5年間も同じ店に勤めた。「5年間同じメンバー3人でやり続けたなんて奇跡に近いよね。入れ替わりが激しい業界だから」とミドリ店長は言った。
とりたてて仲がよかったわけでもないし、ミドリさんとナコさんがしばらく冷戦状態だったことも知っている。
原因となった男の顔だって覚えている。いつのまにかミドリさんと懇意になったあの男。
だけど、いつのまにかミドリさんはあからさまに男を無視するようになった。
わたしは「一度決めたら二度と振り返らない」氷のようなミドリさんの背中をじっと見ていた。


*    *    *


ナコさんが死んだのは、ショッピングモールの二階ドアにつながる歩道橋の踊り場だった。
ナコさんのお母さんがなくなり、いろんな片付けがやっと終わったと話してくれた日の早番の帰りだった。
歩道橋をわたると、店から、大通りの向こう側に行くことができる。閉店後もいろいな人が行き交う、大きな歩道橋だった。
風雨の激しい台風前夜だった。風にとられそうな傘を持つのに必死で、誰も気づかなかった。
どすんをいう音が聞こえて、待合のタクシーとタクシーのあいだにナコさんは落ちた。即死だった。
事故か自殺かわからない。
警察にも聞かれたけれど、わからない。部屋のなかにもヒントのひとかけらもなかったという。
連絡できる身内のひとりも見つからぬまま、部屋は「業者」が片付けた。

*     *     *


「どうしても本店には行かないの?」
「お誘いはありがたいと思っています」わたしはそう答える。
「ナコさんやミドリさんみたいにすごい才能を見てると、わたしはこの世界ではやっていけないと思ってしまう」
「ナコは特別だった。でも、あくまで特別よ。特別でなくてもわたしたちはここにはいられる。で、あなたはこれからどうするの?」
「わからない」

わからないんです、ミドリさん。ほんとにわからないんです。貯金も失業保険もあるし、しばらく自宅にいることはできる。それからわたしはどうするの?
どこかで適当なバイトをして、それから誰かと出会って結婚するの? でも、セックスはできないんです。この年まで処女だなんて言えるはずがない。言わなくてもきっとわかる。いや、その前にわたしは、セックスなんてたぶんできるはずがない。
わたしはもう何年も父親以外の男性と話したことなんかないし、不登校だったわたしがなんとか仕事してきたことを母は喜んでるくせに、それ以上のことを望んでいない。
そう、母親は、この家を出ればわたしは孤独と不安と人間関係で押しつぶされて死んでしまうと思い込んでいる。
いつまでもこの家にいるんだって思い込んでいる。
わたしは飛び立つ前から「あなたの羽には傷があるから飛ばなくていいのよ」と言われ続けて、うっすらとそれを信じこんでいるんです。


ナコさんみたいにわたしもいつか死ぬの。
わたしはどこにも飛び立てなくて、処女のまま死ぬの。
それまでのあいだ、とても長くて気絶しそうなくらいの退屈な毎日を過ごしていくの。
そのことを考えると気が狂いそうだけど。
ほんとに、じゃあ、ほんとに何をすればいいのかわからないんです。

「生きているっていう退屈は、いつになったら終わるのかしら」
ミドリさんがそう言った。
「ナコはそれを終わらせたかったのかな? 彼女の母親は、なくなったあともナコの足首をつかんで離さなかったのかな? ナコはもう、母親から開放されたと思ってたのに。解放されたと思ってたのは、私だけだったのかな? それとも、事故だったのかな? いつもそんなことを考えてるの」
LINEの既読がつかないんだよね。
なくなっても、一回だけは返信できるとか、どんなに世界が進化しても、そういうことだけはできないんだよね。

*     *     *

わたしたちは、お店のバックヤードから、東口の大きめのカフェに移動した。二人で飲むなんて始めてだ。いや、誰かと飲みに行くなんて本当にはじめてだった。

カクテルを勧めるミドリさんに「カクテルなんて飲んだことない。家でビールをお相伴するくらいだ」と言ったら、驚いて、甘いカクテルを注文してくれた。
カシスオレンジ。どこにでもあるカシスリキュールとオレンジジュースのカクテルよ。どれを頼んだらいいかわからない時に便利よ。

そして、甘いカクテルに口をつけたあたりで、いきなり二人組のスーツの男性が声をかけてきたので心底驚く。同じフロアのお茶売り場の二人だった。
「こういうところでお会いするなんて意外ですね。同席しませんか?」と、若い方の顔見知りが言ったが「ごめんなさい、今日は二人で話したいの」と本当にさらりとミドリさんが断ったので、その鮮やかさに驚いた。
「では、またいつか別の機会に。渋田さん、お食事に誘わせてください」と、大柄な方の男性が言った。耳がまっかだった。耳って赤くなるんだとびっくりするくらいの赤さだった。
わたしの苗字、渋田ってどうしてわかるの? ああ、ローマ字の名札をつけてたからだ。でも、気づいてくれてたんだ。
わたしは何も言えなくてうつむいてしまった。

ミドリさんがくすくす笑いながら言った。
「ドルチェは今月末でテナント撤退するんです。だから、早めに来て。そして彼女のもう一度同じことを言ってみて。それまでに返事を考えておくように言っておくから」
大柄の男は耳をまっかにしたまま、頭をさげて席を離れた。若くて痩せた方の男が、彼の肘でつついて笑っていた。

「茶舗の3代目はやり手で人間性にも定評があるって評判。でも、そんなことはどうでもいい。どうでもいいけど、あなたが決めるのよ。どうでもいいこと、どうなるかわからないこと、そんなことをいっぱいいっぱい決めていくの」

早いペースのミドリさんのお酒はウォッカの3杯目になっていた。
ねえ、酔っ払っていい? 酔っ払いの戯言をいっぱい言っていい? とわたしに尋ねる。
わたしもなんだか楽しくなった。
どれだけでも言ってください。

あなたがお店を辞めるのはすごく残念だけど仕方ない。
これから失業保険もらいながら、職業訓練に行くのもいいわよ。あなた、すごく頭いいわよね。パソコンでも経理でも介護でもなんでもいいから、新しいことを勉強するの。
学校に行き直すの。おそるおそる知らない人と話したり友達になったり、人間関係が嫌になったり、あてにされて勉強教えたり、試験の問題をいっしょに解いたりするの。
そしてパソコンができるようになって、あなたは茶舗の3代目の片腕になるの。あははは。

今度はわたしの耳が赤くなった。
急に耳がジンジンしてきて熱くなったので、きっと赤くなったんだろう。
慌てて耳を掌で触ってみる。

耳ってやっぱり赤くなるものなんだ!

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