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「ミドリの森 8 」 ナコ4

※ 書きかけの小説を少しずつアップしています。
完結させるためのエネルギーにしたくて。
連作ですが、一話ずつ読めます


晴れた日の午後。暑くもなく寒くもなく風もおだやかで、秋の空はかぎりなく広い。
そこに1本の白い煙が、迷いもなくすっと天を目指して登っていった。
別れはそれなりの空洞を残したけれど、精一杯手を振って見送りたくなるような清々しさがあった。
わたしは今、母が焼かれて天に上っていくのを見送っている。

日曜日の午後の一件から、平日が終わる金曜日までの休みを店長のミドリさんが手配してくれた。
「本店から応援を頼むこともできるから、ゆっくりといろんなことを片付けて」と言う。
大嫌いなミドリさんだが、仕事になると、その対応に感謝するほかない。表向きだけだとしても、彼女は仕事でだけは信頼できる。

ひとりで芝生に出て、もう一度火葬場の控え室に戻ると、民生委員の田中さんが来ていた。
彼女は思い出話をしたがった。そうすることが母への供養だとでも言うように。わたしたちの中学時代のことを話した。
「あなたが学校を出るまでは、ってすごくがんばってらっしゃったわよね。いっしょに居酒屋に行ったこともある。話も少し聞いたわ。前のダンナさんの暴力から逃げたこととか、それからのこととか。パート先のスーパーでもよく会ってたから。体調を崩して休みがちになってからも、時々行ってたの。民生委員としてじゃない。近所の友人だとずっと思ってたわ」
それから彼女は娘のミホコの話もした。
「ミホコはよくあなたのことを話してた。美術部でもとても素敵な絵を描いてて叶わないといつも言ってた」と。
ミホコは美術系の大学を出て、市内の印刷会社にいるという。
叶わないのはわたしの方だ。大学で絵を学ぶなんて思いつきもしなかった。早く家を出たかったわたしには、そんな道は目の前に見えてなかった。
素直にわたしの絵を褒めていたミホコ。あれはお世辞でもなかったんだな。それを聞くと悪い気はしなかった。
もっとも田中さんさんは、ミホコの自慢をしたかっただけなんだろうけど。

「ねえ。親子なのに。どうして気にかけてあげなかったの?ただひとりの家族なのに。彼女はあなたの携帯番号すらも知らなかったのよ」

(当たり前だ。知られたくなくって番号変えたんだから)

「嫌いでも仲が悪くても血は繋がってるの。みんな、お腹を痛めて、死ぬほど苦しんで産むの。本気で嫌いになんてなれるはずないじゃない。ねえ、そう思わない?」
田中さんはいつのまにか缶ビールを飲んでいた。
母と同じ種族なのか、それともお酒の力を借りなければ言えないとでも思っているのか?
「わたしも悔しい。もっと早く気付いてあげればこんなことにならなかったのに。でも、あなただって悪いわ。家族のあなたは、もっとちゃんと助けてあげなくちゃいけなかったのよ。母娘なんだもの」

(この人は何を言ってるんだろうか? 誰かが母を助けられると思ってたんだろうか? そんなことありえないし。そもそも、助けてあげられるのは、わたしじゃないはずだ)

ドアの向こうから黒いワンピースの女性がやってきた。
髪をアップにしたミドリさんだ。

まるで外国映画に出てくるようなシックないでたち。ケバくなく、ハッと息をのむような、美しさを放っている。
「奈津子さんの職場の者です。このたびは大変なご足労をおかけいたしました」
そう言って、ミドリさんは斜め90度近くまでキチンと腰を折り曲げた。会社の研修で習ったとおりの(一番ていねいなお辞儀)だ。
「私共の配慮が行き届かず、奈津子さんに頼るばかり申し訳ございませんでした。そのせいで田中さまにも多大なるご負担をかけてしまいました。大変感謝しております」
芝居がかっている。でも、先手を打つには十分だった。
「奈津子さんには金曜日までお休みを取ってもらってます。ですが、私どもも、少ない人数で切りもりしているものですから、少しばかり奈津子さんから引き継ぎの話を聞かなければいけません。大変申し訳ないのですが、この時間にちょっと奈津子さんをお借りしてよろしいでしょうか?」

相手に有無を言わせない。そういう完璧な強さだった。
田中さんがたじろいでモゴモゴ言ってるあいだに、それではちょっと失礼します、そう言ってわたしを庭に連れ出した。

外に出ると同時にミドリさんはタバコに火をつけた。
「あんな、ちっぽけな正義に付き合うことなんてないのよ」
ミドリさんの顔に静かな炎。
「嫌いな親だっている。助けあってなんていられない。離れていなきゃ自分を守れない。できれば一生会わずに過ごしたい。そんな親子だっているのよ。面倒みたり、苦労して介護したり、そんな話ばっかで、反吐が出ちゃう。もちろんそういう人だってすごく頑張ってるんだろうけど。それはできる人がすればいいのよ。押し付けないでって思うの。嫌なら逃げればいい。ほんと、それだけのことだってわたしは今でも思ってる」

短くなった煙草をベンチの脇の灰皿に押し付け、ミドリさんは立て続けにもう一本タバコをつけた。
「父親とは一生会わないつもりだったから、死んだって聞いて心底ほっとしたわ。これで縁が切れるってね。でもね、死んでしまったあとにも、わたしはずっと、あの男の呪縛に囚われるているの。あなたはそんなふうにならないで。おかあさんのこと嫌いだったんでしょう? 民生委員の話を聞いてるあなたは心底嫌そうな顔してたもの。だったら、すっぱり忘れて生きなさい。わたしみたいに、親の毒が身体中にまわってしまわないように」

(苦しくないんですか?)
 などとはとても聞けなかった。
だらしなくてとんでもなくて嫌なヤツであるミドリさんが、どこでもがいているかが一瞬のうちにわかってしまったからだ。

さあ、きちんとお別れしてきなさい。
もう、誰も、あなたの足首を掴んでこないように。

ミドリさんが短くなったタバコを消した。

目を瞑り。ぐっと力を込めて背筋をのばす。
誰かの不幸が、もう2度と、わたしの足首を掴みにこないように。

わたしは骨だけになった母の元へと戻った。


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