誤解はするもの、されるもの

こないだ知人がSNSで軽く炎上しているのを見てギョッとした。
それも恐らく本人は気づいていないところで、ほんと偶然。

しかも僕自身の仕事と関係のある内容だった。
大雑把に言えば、その職種のあり方についてだ。

知人には、そんな思惑はもちろんなかっただろう。
僕も投稿を見た時に、違和感はなかった。
ただ同じ職種の別の人は癇に障ったらしい。

同じ職種の別の人の言い分は納得ができるもの。
至極真っ当であるし、そうあるべきだと思う。

その一方で、それは綺麗事に過ぎない。と思う。
それで世の中がまわるようであればオッケーよって。

知人の投稿は、その視点(知人は無意識だろうし、僕もその無意識に合わせて自然と考えていた)でわざわざ見ると現実的な解決策である。

理想を求めるのは結構。
でも、100%の正解なんて存在しないし、
100%でないなら落とし所を探す必要がある。

「あるべき姿で、案件・事業が成り立たないなら、そもそもその事業をやる資格がない」
なんて言ってしまったら、そうなんだけど、
それはただの「良いカッコしい」である。
人間はそこまでデキた生物ではない。

一つのビジネスでも大勢の人が関わっている。

人は集まると賢くなれる可能性があるけど、
馬鹿になる可能性も秘めているのだよ。
心当たりありません?

僕も、同じ職種の別の人の意見という理想と、知人の現実的な解決策のギャップに悩む。ときどき嫌になる。


ここまですんごいボカした話をしてきた。
たぶん、読んでいる人は何もわかんない。
ほんの少しだけ、ほんの少しだけ
具体的な話に切り替える。


ここまで理想と現実の対立で話をしてきたけど、
そもそもなんでそんな話になっているのか。

知人の投稿に、理想と現実の話はそもそもない。

じゃあなんでそんな話になったかと言うと
同じ職種の別の人が誤解をしたからである。

同じ職種とはいえ、
自分の仕事に当てはめて考えてしまったから。
至極当然。

誤解した人も、誤解された知人も全く悪くない。


例えば。
「編集」という職種と言ってもやっていること、
求められることはそれぞれ異なる。
ビジネスだったりカルチャーだったりとジャンルが変われば余計に。
予算という制限。メディアポリシー。
自社メディア、雇われか。
よくよく考えてみて。やっていることは絶対に違うはずだから。

でも「編集」という言葉でまとめちゃう。
便利だから。蓋を開けたら全然条件とか目的が違うのに。

全然異なるのに、同じ言葉でまとめちゃうから
ふとしたときに誤解が生じる。

ちゃんと話せばわかる?

それも「良いカッコしい」だ。

同じ業務を体験していない限り、必ず誤解は生じる。
なんなら同じ業務を体験しているようでも、
タイミングが異なれば、もちろん異なる。

仕事・職種というククリで書いたけれど、
もちろんこれはそれに限ったことではない。

基本、分かりあえない。

誤解はするもの、されるもの。

絶望の話ではない。余白の話。


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