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地獄の入り口 マガダン

    マガダンは、シベリアの強制収容所への入り口だった。いまグーグルストリートビューで見ても、地獄の入り口かと見まがう風景が展開する

 デイヴィッド・レムニック『レーニンの墓 ソ連帝国最期の日々』(白水社)には、シベリア、マガダンの強制収容所への地獄の旅の描写がある。
 家畜運搬車でのひと月の鉄道の旅では、あまりに詰め込まれているので、立ったまま餓死する囚人がいたという。数千人の男女を詰め込んだ貨物船の船倉で繰り広げられる身の毛もよだつ地獄図は、人間の尊厳をことごとく踏みにじるものだ。

マガダンはオホーツク海に面する海港都市。
北緯59度33分 東経150度48分。樺太の北。カムチャツカ半島の付け根の近く。

 この町は、極東の強制収容所や強制労働の拠点になった。
 スターリンの時代には、流刑者はまず船でマガダンに送られ、ここからシベリアの各地での強制労働に送られた。そこは、食料も家も道具も資材も、何もない地獄だ。

 第二次大戦での日本軍の捕虜も、マガダンに送られてから、300キロ北にあるコリマ鉱山(コルィマ鉱山。Колыма)などでの強制労働に送られていった。コルィマ川流域に建設された強制収容所は、史上最悪の収容所だった。

 冒頭に示した写真は、マガダンの住宅地の一部。スターリン時代の写真ではない。グーグルマップにある現代の写真である。

ここをクリックすると、ストリートビューが見られる。周りを歩き回ってもバラックばかり。

 マガダンの1月の平均最低気温 は −18.5°C 、最低気温記録 は −34.6C °だ。こんなバラックのような家で生きのびられるのだろうか?
 遠景にある海には流氷が見える。これは夏の写真なのだろうが、北緯59度では、冬になれば一日の大部分が闇に閉ざされてしまうのだろう。

 歩き回ってみると、遠くに集合住宅のようなものも見えるので、マガダンのすべてがこうした風景であるわけでない。しかし、同じようなところは、いくらも見られる。

 上の写真にはましな構造の建築物が立っているが、廃墟のようになっている。
 ここをクリックするとストリートビューになり、周りを歩き回れる

 後ろを振り向いてから上り坂を上がると、つぎのような場所にでる。

 ここにきて初めて人間が現れた。これは倉庫だろうか?それにしても荒れ果てて殺伐とした場所だ。

  『レーニンの墓 』には、ソ連末期の姿が赤裸々に描かれている。石油採掘労働者は、零下40度の厳冬の中、掘立小屋やトレーラーに住む。炭鉱労働者には、顔の石炭粉を洗い落とす石鹸がない。トルクメニスタンの幼児死亡率は西欧諸国の10倍で、カメルーン並み。
 車は買ったとたんに壊れ、ミネラルウオーターの瓶にはネズミの死体が浮く。住宅火災の主原因は、自然発火するテレビだ。黄色や緑色の煙が絶え間なく吐き出される製鉄の町マグニトゴルスクでは、子どもの9割が大気汚染関連の疾患にかかる。国営農場の人々は、すし詰めのバスに乗って町に食料の買い出しに行く。
 しかし、これらでさえ、極東の収容所マガダンに家畜運搬車や貨物船の船倉で送られる囚人たちの1月間の地獄の旅に比べれば、極楽に見える。強制収容所こそ、ソ連恐怖政治の中核だった。

 ノーマン・M・ネイマーク『スターリンのジェノサイド』(みすず書房、2012年)は、スターリンのジェノサイド(集団虐殺)による犠牲者の総数は、2600~4000万人としている。想像を絶する残虐行為が、千年前ではなく、現代の世界でついこの間まで、行われていたのである。

 こんな国に生まれていないでよかったと、心の底から思う。

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