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バーチャルツアがこんなに簡単に

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訪れるのが困難な場所にも、いまは地上から抹殺された街にも、時空を超えてひとっ飛び。
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戦前のドレスデンを訪れる(その2)

 戦前のドレスデンのバーチャルツアを続けることにしよう。  下の写真は、聖母教会。  この南側にNeumarkt(新市場)というマーケットがあった。下の写真を見ると、露天が出ていて、賑やかな場所になっているのが分かる。  この写真は大分前のものだ(人々の服装から見ると、写真ではなく絵なのかもしれない)。  戦前のドレスデンを訪れる(その1)で見た航空写真だと、教会と市場の間の建物はなくなっているように見える。  ただ、聖母教会の特徴のあるドームは変わらない。  タイト

戦前のドレスデンを訪れる(その1)

 ドレスデンは、旧東ドイツ地区のチェコ国境に近いところにある、かつてのザクセン王国の都。「エルベのフィレンツェ」と言われた美しい街だった。  しかし、第2次大戦の爆撃で徹底的に破壊され、瓦礫の山になった。  その後再建されたが、再建期に社会主義国家だったこともあり、戦前の栄華とはほど遠い街になってしまった。ケーニッヒスベルクほどではないが、「いまはもう訪れることが出来ない街」だ。  しかし、「バーチャルツア」という強力な武器を持っているわれわれにとっては、最適探訪地の一つ

ケーニッヒスベルクの空想散歩:Kneiphof島

 「ケーニッヒスベルクの空想散歩を続ける」では、城の北側を歩いた。今度は、城からKant 通りを南に向かって歩いて見よう(上の写真に写っている地区を中心に歩く)。  下の写真にあるKraemer橋 を歩いてPregel 川を 渡る。背景には、城の時計台が見える。  Kneiphofという島に出る。これは、Pregel 川の中州になっている。  この島と、Altstadt (城から島に至る地区)と Löbenicht (Altstadt の東の地区)が、古いKönigsbe

ケーニッヒスベルクの空想散歩を続ける

 街の中心的な部分の様子が掴めると、あとは地名を検索すれば、そこの写真をウエブで得られる。ケーニヒスベルクは、かなり写真が豊富だ。だから、自由自在にバーチャルツアをできる。もう少し歩き回ってみよう。  まずはParadeplatz。これは城の北500メートルぐらいのところにあるほぼ長方形の庭。下の地図のほぼ中央、上のほうにある。  北側にあってほぼ南(正確には南南東)を向いているのが、下の写真の大学。  上と下の写真にあるフリードリヒ3世の騎馬像は、大学の建物を背にして

ケーニッヒスべルクの街を、頭の中に精密に組み立てる

 バーチャルツアの醍醐味は、何枚もの写真を見ているうちに、次第にイメージが組み合わされてきて、街の姿が浮かび上がることだ。  ある段階で、いくつもの写真が整合的に、矛盾なく組み上がる。この瞬間は快感だ。一度経験すると、中毒になるだろう。  実際の場所を知っている場合には、この快感は味わえない。ケーニッヒスベルクは決して訪れることができない場所だから、最適の対象なのだ。  これまで2回にわたって紹介してきたケーニッヒスべルクの写真をもう一度整理し直し、上の拡大地図と照合しつつ

時空を超えて、いまは存在しないケーニヒスベルクを歩く

 「かつてケーニッヒスベルクという美しい街があった」で述べたように、プロイセンの都ケーニヒスベルクは、いまは存在しない。   その跡地は、醜悪な建築物が居座るロシアの飛び地カリーニングラードになってしまった。そこがどういう場所かは、グーグルストリートビューで簡単に確かめることができる。あまりの変貌ぶりに、涙さえ出てこないだろう。  しかし、インターネットの魔術を使えば、時空を超えて、カントやワグナーが住んでいたこの美しい街並みを散策することができる。  強力な武器は、この

かつてケーニッヒスベルクという美しい街があった

 かつてケーニッヒスベルクという美しい街がプロイセンにあった。  しかし、この街は第2次大戦の激戦で地上から抹殺され、醜悪な建物があるロシアの飛び地になってしまった。だから、いまそこを訪ねるには、空間を超えるだけでなく、時間をも超えるバーチャルツアーが必要だ。  2001年にドイツのグループと共同研究をした時、私より少し年上のドイツ側のリーダーの教授から、「東部地区から、母親とともに命からがら逃げてきた」という話を聞いた。  私は東京大空襲で生き残った話をしたのだが、「こう

大発見!「アレクサンドル・ネフスキイ」は、クルスク戦車戦の予言だった。

「アレクサンドル・ネフスキイ」は、セルゲイ・エイゼンシュテインの1938年の作品。  後で述べるように、これはクルスク戦車戦(1943年)の予言になっていた。この事実は、これまで指摘されていなかったことだと思う。  12世紀から、「北の十字軍」と呼ばれるリヴォニア騎士団、ドイツ騎士団などが、北ヨーロッパ、とくにバルト海沿岸南東の異教徒に対して遠征攻撃を仕掛けてきた(ロシア正教は、異教扱い)。   1240年、ドイツ騎士団がロシアに侵入したが、ノヴゴロド公アレクサンドル・ネ

「オデッサの階段」はいまでもあるか?

 「戦艦ポチョムキン」(1925年)は、ソ連の映画監督セルゲイ・エイゼンシュテインによる、映画史上、空前絶後の作品 。   空前であるのは当然だが、ある意味で絶後でもあると、私は考えている。  私は、大学生のとき(1962年か63年頃)に、東大駒場祭で見た。「ポチョムキン上映促進会」というのがあって、その団体の主催で上映したのだ(日本初公開は1967年とされているが、これは、一般公開の時点だ)。非常に強い衝撃を受けた。  それ以降、何度も見た。いまはなき日劇アート・シアター

「スターリングラードの戦い」の噴水は、いまどこにある?

 スターリングラード(現在はヴォルゴグラード)は、ボルガ川に面した工業都市。  1942年6月、ドイツ南方軍集団は、猛烈な砲爆撃とともに、西側から市街地に突入した。  これに対してソ連第62軍は頑強に抵抗。市街地南部で、史上かつてない大激戦が展開された。  この戦闘を描いた映画はいくつもある。比較的新しいものでは、「スターリングラード」(原題: Enemy at the Gates:2001年)。  ユンカース急降下爆撃機の攻撃を潜り抜けた渡河船団で上陸したソ連兵士は、

ウラル山地と文化の都ペルミ

 アルタイ山地の花園は、私の友人たちの間でも評判がよかった。  やはりあのあたりは、われわれモンゴロイドの発祥の地で、原始的記憶に訴えるものがあるのだろう。  自然の美しさという点で言えば、ウラルも自然が豊かなところだ。山や川や湖や湿地帯がある。  アルタイは「モンゴロイドの領地」というイメージがあるのに対して、ウラルまで来ると、ロシア人の領域だと言うイメージだ。もっとも、それはロシアの文化が及んでいるという意味であり、風景に差があるわけではない。  湿地には花が咲いて

アルタイ山脈の花園を散策する

 これまで、汚染されつくした核兵器実験場や、核戦争で最終報復を行なう地下秘密指令所など、物騒なところばかりを見てきた。  シベリアには、そうしたところしかないのかと言えば、もちろんそうではない。  もう一度東に戻ると、アルタイ山脈がある。  ここは、モンゴルと中国とカザフスタンと、そしてロシアが国境を接するあたり。  クラスノヤルスクやノボシビルスクの南500キロくらいのところ。セミパラチンスクの核実験場からは、東へ300キロくらいだ。  ここは、鉄道が通っていない秘境だ。

バイコヌール宇宙基地を宇宙から見学

 人類最初の人工衛星 スプートニク1号は、1957年10月4日に打ち上げられた。  これは、私が高校2年生の時で、その日のことはいまでもよく覚えている。たまたま遠足の日だったのだが、一日中人工衛星のことを考え続けていた。  この日のショックは、私だけでなく、同世代の者の人生進路に甚大な影響を与えた。  1999年のアメリカ映画「遠い空の向こうに」(原題: October Sky)は、アメリカ、ウエストバージニア州の高校生の話。主人公は私と同年齢だが、やはり、この日の出来事で

ロシアの核戦争秘密基地を、グーグルアースで偵察

 メジゴーリエは、南ウラルの山中にある閉鎖都市。人口約18,000人。          1979年に建設された。1994年までは名称がない秘密都市で、地図にも記載されていなかった。現在も、住民以外の立ち入りは制限されている。 マグニトゴルスクの北北西100キロほどにある。  その東方にあるヤマンタウ山(Mount Yamantaw)は標高1,640メートルで、ウラル山脈南部では最も標高が高い。  ソ連崩壊後の1990年代末に、ここで行なわれていた大規模な掘削プロジェクト