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続・UFOとの交戦記録

これは364回目。おまけに、日本における交戦記録といきましょう。

(一部、以前書いた【国家機密としてのUFO】と重複しています)

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実は、日本の自衛隊でも数々のUFOとの遭遇事件、撃墜しようとして撃墜された事件などが、漏れ伝わっている。しかし、アメリカと違って、一定の情報公開すらないので、いくらここで書いたところで、読者からは信憑性が疑われてしまう。

たとえば、こんな事件があったと「されている」のだ。1974年6月9日の夜に 茨城県の航空自衛隊百里基地所属の中村登志雄(当時42歳)2等空佐の操縦するF-4EJファントム戦闘機<17-8307>とUFOが交戦し、中村空佐が 死亡した。

この事件が初めて明るみに出て情報公開されたのは米国通信社のR.リチャード・ドレイバー記者が、死亡した中村空佐の機に同乗して生還した、自衛官・久保田四朗(当時40歳)
3等空佐から得た証言が「UFO Report 1978」3月号に掲載され、真相が国際的に知られる
ことになったからだ。

その夜 スクランブル発進命令が下され2機の戦闘機(その後1機は故障したため基地に帰還)が、「国籍不明機を確認せよ」との命令だった。

ところが、その後「UFOを追跡せよ」と変更になり 中村・久保田両氏が F-4EJファントム1機で 夜の東京空域に出現したUFOを追跡した。

中村空佐は よく晴れた東京空域の夜空で、数キロ前方に丸い形をしたUFO(直径:約10m)を確認。追跡を開始し接近すると まもなく UFOは 高度を下げて旋回し 次の瞬間 ファントム機をめがけて攻撃をしてきた(どういう攻撃であったか、具体的には不明。ただ突っ込んできただけかもしれない。)。ついに4回目のドッグファイトで、UFOと衝突した。中村空佐がキャノン砲をUFOにロックオンした瞬間、UFOはあっという間に突っ込んできてF-4EJは大破した。

激しい衝突の衝撃が 体全体に伝わり中村空佐の悲鳴と同時に久保田空佐の体が、座席と一緒に フアントム機の外へ飛び出した。パラシュートは開いたが、久保田空佐はがたがたと震えが止まらなかったという。

右の方には 中村空佐のパラシュートも開いていたが、そのパラシュートは戦闘機の爆破が引火したらしく、燃え上がった。中村空佐は死亡した。

この事件に対して 防衛庁・航空自衛隊は 厳しい緘口令(かんこうれい)と隠蔽工作をし、一切日本国内では 報道されなかった。

かろうじて生還した久保田空佐は さっそく事件の真相を自衛隊幹部に対し詳細に報告した。

しかし その後 防衛庁は この事件を3年間もカバーアップ(秘匿)したため、呆れた久保田空佐は 4年後に航空自衛隊を退職した。

人命や真相解明よりも 事件の隠蔽工作を優先する防衛庁の体質に対し、久保田氏は我慢がならなかったようだ。そこで米国報道機関に告発証言することになったと証言している。

久保田氏は 次のように証言している。

「UFOを追跡して思ったことは、非常に高度に発達した知性と文明をもつ生物が 操縦し
ていると確信した。当初ソ連機の侵入を阻止するためのスクランブルだったが まもなく 明るく輝くUFOの実態を確認・調査・報告する命令に変更された。UFOは 赤やオレンジ色に輝くディスク状の機体で急接近等を何度も繰り返し、とても危険な状態であったため やむなく中村空佐は、激しい降下や旋回をおこなった。その後 間もなくしてUFOが ジェット機に体当たりして破壊され脱出した。亡くなった中村空佐と 遺族のことを思うと、絶対に無駄死にさせてはならない。この事件を闇に葬っては ならないと思い 外国の報道機関に真実を語ることにした。」

米誌によって事件が報道されると、防衛庁は 事件発生日にスクランブルをしたことを認めたが それ以外は完全否定した。

向井裕という人物がいる。旧帝国陸軍で、陸軍情報部少佐だった人物である。彼が、日本で最初のUFO裁判を提起している。

向井氏は、自民党議員や防衛庁(旧)関係者等の証言・関係資料の調査・分析の結果から、1974年の「中村空佐死亡事件」は 久保田氏が証言したように確実に存在し、航空自衛隊・防衛庁により隠蔽された日本史上に残る重大なUFO事件だと証言している。

いずれにしろ、この日本における確認できる最初の戦闘機パイロット死亡事件の後も、自衛隊では数々のUFO遭遇事件が起こっている。

航空自衛隊で、当時戦闘機パイロットとして最長飛行時間記録保持者であった佐藤守(空将)が、その後退役してから、パイロットたちのUFO遭遇事件を調査し、本人の実名・写真入りで事実の公表に踏み切っている。

たとえば、1983年6月8日に、宮城県金華山上空で、訓練飛行中の自衛隊戦闘機が、同じものと思われる葉巻型の巨大なUFOに遭遇しており、このときには、UFOがその大きさにも関わらず、あっちとみれば、こっちと瞬間移動したという。停止していて、加速無しに一気に移動するということは、現状の飛行技術ではありえない。

この83年の事例では、直後に訓練機の電子機器が異常作動を起こしている。コントロールが効かなくなり、操縦不能となった。UFOが消えると、機体は正常に戻り、訓練機は無事帰還している。

ほかの例では1985年6月、名古屋上空を飛行中の自衛隊輸送機が、2-300メートルもの長大な葉巻型(円筒形)のUFOに遭遇している。

疑えばキリが無いのだが、冒頭で紹介した米ソのスターウォーズ計画スタートや、レーガン大統領の国連での驚くべき発言内容は、1985年からである。

この1985年というのは、8月12日に御巣鷹山に墜落した日航機123便の事件が起こっている。レーガン・ゴルバチョフのジュネーブ会談は同年11月である。1974年の中村空佐死亡事件からおよそ10年経過するまでに、実は日本の航空自衛隊には多くのUFO遭遇事件が発生しており、挙句の果てが日航機123便墜落事件だったとすると、話は単に国内の誤爆事件といったようなレベルでは済まないことになってくる。

御巣鷹山の悲劇が、自衛隊のミサイル迎撃訓練演習時の誤爆なのか、それともUFOからの攻撃あるいは偶発的衝突だったのか、まったく真相は不明だが、レーガンやゴルバチョフらの発現が、この直後であったといい、時期的関係はあまりにも不気味ではないか。

御巣鷹山における自衛隊や政府の「異常な行動」というものも、その隠蔽体質からすれば、納得のいくものとなってくる。もちろん御巣鷹山における事故は、あくまで人為的なものであったという主張さえ、表向きには「トンデモ説」にされてしまっている。ましてや、UFOなどといえば、話がぶっとんでしまうと、一笑に付されてしまうだろうが


長々と、軍とUFOとの交戦記録をいくつか羅列してきたが、これはほんの一部にすぎない。さらに圧倒的に飛行頻度の高い民間航空機に至っては、毎日のようにUFOとの遭遇が起こっていると思っても不思議ではない。

米国では、年間6000件ものUFO出現件数がある。世界のどの国より突出して多い。

2008年1月8日、テキサス州スティーブンビルで、UFOが確認された。多くの住民がこれを目撃している(一般人、警官、空軍所属のパイロットなどが含まれている)。光る巨大な球体は音一つ立てなかった。連邦航空局のレーダーがこれを確認しており、その航行軌跡データも公開されている。

連邦航空局は、通信を試みたが、反応は無かった。UFOはテキサス上空を100キロあまり、2時間かけて飛行した。興味深いことに、すぐ近くを米空軍の戦闘機が飛行していたにもかかわらず、まったく行動を起こさなかった。これもレーダーの記録から判明している。

政府は、当初、珍しい光学現象だとして隠蔽したが、かつてと違い、米軍はUFOの飛行を黙認しているということが、これがはっきりわかる。

この問題の闇は深い。しかし、やがて、闇は明らかになる。光の中に無いものは、闇の中にもないからだ。


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