殺すな。
これは310回目。人間は二度死ぬと言われます。一度目は、生物学的な死。そして、二度目は忘れられるときです。
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以前、ジェネジャンというテレビ番組で、一人の一般人が死ぬまでを追ったシリーズがあった。彼は肺癌で、余命も限られているという宣告を受けていた。その闘病生活が定期的にカメラにおさめられ、何度かスタジオにも登場した。
その末期、本人がとくにがっかりしていたのは、たまに病院を出て、吉野家にいっても、「並」が満足に食べられなくなってきていることだと言っていた。
死ぬことに関しては「だんだん馴れてきた」とも。今、一番何をしたいか、と聞かれ、「とにかく仕事をしたい」と言っていた。
どうにもつらいことが、ひとつだけある、と言った。それは「忘れられることだ」と。しかし、今日の御題はこの話ではない。
このように生きたいのに、病気や事故などで、不可抗力的に死ななければならない者がいる一方で、世界は今、とんでもないことが起きている。今日の御題はそちらのほうだ。
最たるものが、中東の混乱だ。あまりにもむちゃくちゃな暴虐によって、多数の人々が日常的に殺されている。中東だけではない。アルジェリアやナイジェリアなどのアフリカ、あるいはパキスタンやアフガニスタンでもそうだ。イスラムはいったいどうしてしまったのか。
テロ、というのは古来、「割に合わない政治行動」だとされてきた。テロによって、歴史の潮流が大きく変わったということは、きわめて稀だったからだ。それは、歴史上、テロというものが「敵」を限定していたからだ。
しかしいまや、テロではない。ただの無差別殺人にほかならなくなっている。恐怖で支配地を統制し、あらたな無差別殺人を繰り返しながら、版図を拡大している。これは、由々しい事態だ。
コロンビアなどの麻薬カルテルが、国家的な規模で暴力的支配を拡大したことなどは、まだイスラム国に比べれば、マシだろう。なにしろ麻薬カルテルは、それを神の名の下に行っていない(メンバー一人ひとりは、個人的には、敬虔なカトリックだったりするから、驚きだが)。しかし、組織としては、文字通りマフィアとして公然と暴力支配を行うのだ。しかし、イスラム国はあざといことに宗教を、金看板に掲げている。これが、思った以上にネックラインとなっていた。アルカイダもそうだ。
そのことが、「ものわかりのよい」国際社会をして、一歩踏み込んだ介入を躊躇させている。しかし、あれは本当に宗教なのか。それとも革命なのか。あるいは、麻薬カルテルと同じ、組織的暴力の発動でしかないのか。リベラルを自認する多くの先進国市民は、不毛の議論をして、悲劇を放置したままだ。
シリア東部とイラク西部を制圧した「イスラム国」は、今や崩壊同然だが、その最終的な「解放」の目標を持っていた。その地図によると、言うなれば、オスマントルコ帝国の最大版図にほぼ等しい。
北アフリカ全域と、ポルトガル・スペインなどイベリア半島。トルコから東欧のバルカン半島、ウクライナからイラン、アフガニスタン、パキスタンは言うに及ばず、インドの西部。そして東アフリカである。
彼らのことを、少しでも理解しなければならないと思い、イスラム国全盛期にとにかくコーランを読んでみた。コーランには、確かに「殺せ」と書いてある。しかし、それは、イスラム教徒が迫害され、攻撃された場合である。それが「聖戦(ジハード)」の章だ。
コーラン第2章(雌牛の章)190節−193節
190節
神の道のために、おまえたちに敵する者と戦え。しかし、度を越して挑んではならない。神は度を越す者を愛したまわない。
191節
おまえたちの出あったところで彼らを殺せ。おまえたちが追放されたところから彼らを追放せよ。迫害は殺害より悪い。しかし、彼らがおまえたちに戦いをしないかぎり、聖なる礼拝堂のあたりで戦ってはならない。もし彼らが戦いをしかけるならば、彼らを殺せ。不信者の報いはこうなるのだ。
192節
しかし、彼らがやめたならば、神は寛容にして慈悲ぶかいお方である。
193節
迫害がなくなるまで、宗教が神のものになるまで、彼らと戦え。しかし、彼らがやめたならば、無法者にたいしては別として、敵意は無用である。
イスラム原理主義者のテロ行為もこのあたりから、根拠を得ているのだろうが、コーランを都合よく利用している排教者と変わらない。麻原とどこが違うのか。
マホメットは、戦いを止めた(しない)人間には、敵意は無用と言い切っている。武器を持たない一般市民を襲うテロリストの行為を認めるはずもない。ましてや、風刺漫画を描いたからといって、パリくんだりまで漫画家や編集者、無関係の来賓など12人も殺しにいくなどというのは、もってのほかだ。
以前、イスラム教を冒涜した「悪魔の詩」を翻訳した筑波大教授も、構内で暗殺された事件があった。その直前には、イランの革命法廷が、「死刑宣告」を下していたのだ。そもそも、冒涜されたり、馬鹿にされたり、茶化されたり、それくらいのことで、いちいち人を殺していたら、一生の間、ずっと人を殺し続けなければならないではないか。イスラムの教えとは、その程度のものか。
彼ら原理主義者(というより、ただの過激派)は、二言目には米国の帝国主義を蛇蝎のごとく憎悪しているが、自分たちのやっていることと、どこが違うというのか。
本音は、恐らくそうではない。原理主義的な仮装をすることで、国家総動員的な政治力を発揮しているのであり、目的はもっと経済的な要因であるに違いない。
いずれの宗教戦争も(十字軍はもちろん)、すべて根本的には、貧富や権益などの経済格差や差別が、宗教宗派の違いとリンクしていることから起こっている。聖戦にしろ、それに対する弾圧にしろ、それを表看板の宗教でそのまま解釈しようとするのは間違いだ。実は宗教そのものが問題ではない。
どの宗教も、無差別に殺せとは言わない。善いことを行えと教える。宗教に名を借りた暴虐は、殲滅されなければならない。それは、犯罪にほかならないからだ。敵はイスラムではない、ということだ。
彼らが、コーランを都合良く解釈するなら、世界も同じことを返すことになるだろう。
「目には目を。歯には歯を。」
むしろ、その名誉のために立ち上がらなければならないのは、世界にいる圧倒的多数の「異教徒に寛容」な、「まともなイスラム教徒」たちかもしれない。
いずれにしろ、背景や、動機、理屈などどうでもよい。話はごく単純なことだ。世界中の誰しもが思っていることだ。とにかく、「殺すな」ということだ。
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