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揺れて歩く、誰かに伝えたくなる

「伝えたい、一緒に考えたい」
と思う人の顔が浮かび、すぐに贈りました。(中にはとてもお久しぶりの人もいました。私から突然「本を贈ります。送り先を教えて下さい」と連絡が来て驚いたことでしょう)

読んでいる間、私は自分の祖父母のことをずっと考えていました。



と、ちょっとここでお待ち下さい。ここから続く読書感想文は、できたら、あなたも本を読んで何か感じたことを持ってから、読んでいただきたいのです。読書感想文とは、それ自体が読まれるものではなく、一つの本を読んだ人同士が共鳴し合うためのものだと思うものですから。

清水哲男さんの「揺れて歩く ある夫婦の一六六日」はこちら



感想文、再開。

祖父と祖母にとって、お別れは2回ありました(と私は思っています)。
1回目は2013年11月。祖父は脳梗塞で倒れ、寝たきりになりました。突然、祖父と祖母は、直接言葉による対話ができなくなってしまいました。
2回目は2018年11月。祖父の心臓が止まりました。お葬式をして祖父は小さな骨壺に入りました。

祖母は、対話のできない祖父を5年間、自宅で介護しました(祖母が声をかけたり手足をさすったりすることにわずかな反応はあり、祖母はそうした小さな反応を見つけることを、一緒にいることの確認というか、励みにしているように見えました)。
心臓が止まる「死」がじわじわと確実に近づくのを意識しながら、声が届いていると信じて祖父に話しかけて過ごす。どんなに祖父とお話したかっただろうか。
祖父は、最初のうちは、話しかけると聞こえているようで、表情に変化がありました。でも声は出ず。そして、自分が、じわじわと「死」に近づいていることも、きっとわかっていたはず。毎日傍らにいる祖母に何かを伝えたくてもできないってどんなにもどかしくて辛いことだったろう。


死を迎える準備をする清水さんの「父」と「母」
準備する間もなく、突然対話を奪われた祖父と祖母


「残りの時間は、その後のお母ちゃんのために使おということやがな。そのために生きよと腹をくくったんや」(p.114)
「一日でええさかい、お父ちゃんより長生きしたいと思てたけど、ほんまは二人でずっと生き続けたいと思う」(p.141)

「父」と「母」のやりとりを読んで、きっと私の祖父と祖母も、対話ができたなら、同じような気持ちで同じような言葉を交わしたんじゃないかと思いました(それとも、声には発しなくても、ちゃんと交わせていたのかもしれません)。
祖父が祖母に、言いたくても言えなかったことを、死への準備をする清水さんの「父」が本の中で代弁してくれてるような…。だから、私は祖母にこの本を伝えたくなったのでしょう。(天国の祖父にも読ませてあげたい。)

「相手の生をよろこび、相手のために頑張る」(p.93)
私も、清水さんの「父」と「母」、私の祖父と祖母のように、誰かとそんな風に生きることができたらすてきだなと思いました。

「深い愛」
読み終わった時に浮かんだ言葉でした。


最後にもう一つ。
「揺れて歩く」を誰かに伝えたくなるのは、この本自体が揺れているからだと感じました。

〈医者の説明、介護保険制度、病の進行〉 ⇔ 〈ゆっくり流れる食事の時間、テレビの音量と宙ぶらりんの会話、人生の残りの時間の使い方〉

〈頑強で冷徹な現実、システム〉 ⇔ 〈誰かのために生きようとする自由、愛。システムの手の届かないところ〉

こういう間を、この本は行ったり来たり揺れている。その揺れが、読む人に伝播して、潮のように、ひとりひとりの物語を引き出し、伝えたい人たちの顔を浮かばせるんだと思いました。


清水さん、お父様、お母様、素晴らしい物語を、ありがとうございました。
そして、私のおばあちゃん、おじいちゃんの分も、一緒に生きていきましょう。

昨日(2020年4月27日)から、私は清水さんの「母」千鶴さんの短歌集「日々訥々」を毎日一首ずつ読んで、1年を過ごすことにしました。

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