プレゼンテーション1

復幸の教科書【宮城旅報告③】

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報告③は、女川町(おながわちょう)の復興まちづくりのお話です。

震災から9年。今の女川は、「海の見えるきれいで豊かな町」という言葉が似合います。
漁港が復活し、新鮮なお魚を楽しめます。漁業の2トップはサンマとギンザケ。おかせいの女川丼は絶品!ほかにもカツオ、ホタテ、ホヤ、カキ…など豊富です。
トレーラーハウスのかわいい宿ホテル・エルファロは、被災した4軒の旅館経営者が共同で2017年8月に立ち上げ。スペイン語で「灯台」。「希望を灯す存在になりたい」との思いが込められています。


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しかし、東日本大震災の爪痕をなかったことにはできません。

女川 基本情報
震災時の人口:10014名。死者・行方不明者:827名。一般家屋の66.3%が全壊。現在人口:6404人(2020年1月末)

女川の人々はどうやって立ち上がっていったのでしょうか。女川観光協会会長・梅丸新聞店代表取締役の阿部善英さんと「女川復幸の教科書」に学び、印象的だった3つを書きます。

①「還暦以上口出すな。これからのまちは若手に託す」

震災直後、「行政は捜索活動や避難所運営など、人命・生活関連で身動きの取れない状況。待っていては復興はどんどん遅れる。民間が一つになって立ち上がろう」。商工会長が音頭を取り、震災1ヵ月後の2011年4月19日、約50人で女川町復興連絡協議会(FRK)を設立しました。その設立総会で、商工会長から”世代交代宣言”が出ました。

「壊滅状態からの復興には20年かかる。20年後に生きているかわからない者がまちを作っては責任が取れない。これからのまちは若手に託す。自分たち還暦以上は口出ししない。ただし、何かあったら自分らが弾除けなるし、金策に走るし、ケツ持ちもする。若手に託すことで、若手の流出を防ぎ、やる気のある者が出てきて行動を起こすだろう」

商工会長の発言に、まちの重鎮たちも賛同。こうして、FRKが起点となり、まちづくり提言書の策定、まちづくり会社「女川みらい創造株式会社」の設立・商業施設シーパルピア女川の運営など、若手・民間主導の復興が進みました。

・・・商工会長の発言は、すごい。がつんときました。まちの重鎮にも若者にも、それぞれの役割を自覚させる言葉。分断ではなく、分担と結束を生んだんだと思います。

②活動人口

「人口減が続くまちの活力を維持するには、まちを活動の舞台として使ってくれる人=活動人口を増やすことが重要」との考えから、女川には公民連携で、3つの活動人口創出プログラムがあります。
・「お試し移住プログラム」(シェアハウスに5~30日間無料で滞在。まちの人たちとつながりづくり)
・「女川/地方に関わるきっかけプログラム」(週末2日。女川を歩いて課題と可能性を探り、具体的な関わり方を考える)
・「創業本気プログラム」(1泊2日×3回。地方で起業する必要な要素を学び、事業計画を練り上げて起業のスタートラインに立つ)

・・・すごいのは、「創業本気」が、結果を女川での起業に限定していないことです。起業準備が女川、実際の起業は「どこかの地方」でもいいのです。プログラムを通じて女川と関わりができれば、そこから何かしら生まれる、という考え、柔軟だと思います。(が、しかし、ちなみに、私は女川滞在中に2人の種子島からの移住者・起業者に出会いました!)

③百年に一度に耐える町。千年に一度は「逃げろ」

まちは高台から海側へ、幅広で障害物のない、なだらかな「歩行者専用道」がまっすぐ延びています。まちのどこからでも海が見渡せ、津波が来たら、誰でも駆け上がって逃げられる設計です。亡くなった827人の名前が刻まれた慰霊碑は高台(海抜20m)にがあります。高台に建てたのは、「津波に遭った人を、もう二度と津波に遭わせないため」ということです。

・・・女川にとって、海は恵みであり、脅威である。「津波はいつかまた来る」という、危機感と覚悟を感じました。

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