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2021年3月31日、4年間勤めた南日本新聞社を退職した。

採用試験を受験するために京都から鹿児島に飛んだのは2016年9月。帰りの航空券は買っていなかった。一次面接からどこまで残るか、いつ帰ることになるか、わからなかったからだ。

毎日、選考通過の電話を受けてからその晩の宿を予約する。ネットカフェ、地元の高校生が合宿で使う老舗旅館、バックパッカーが集うゲストハウス…。いろいろ泊まった。
面接は午前中で終わるので、あっちこっちに遊びに行った。
新聞で告知されていた鹿児島弁のお笑いライブを見ている最中に人事から電話がかかってきて、「選考通過」と「次の案内」を告げられたが周りの笑い声が騒がしくて聞き取れなかったということもあった。(このライブで乾き亭げそ太郎さんと出会い、志村けんさんが新型コロナウイルスで亡くなった後、南日本新聞で連載をお願いする縁に繋がった)
片道切符、その日暮らしの旅を楽しんでいた。

「なぜ縁もゆかりもない鹿児島を選んだのか」
面接で何度も聞かれた。県外出身の私に対して厳しいトーンだったように思う。鹿児島に馴染めるか心配されていたのだろう。
一方の私は、あっちこっちしている間に「鹿児島の家族」と呼ばせていただくご一家にも出会い、縁もゆかりも感じまくりだった。

* * *

2017年4月入社。
4年間、本当にいろんな仕事をさせてもらい、学ばせてもらった。
どんな小さな出来事にも無関心ではなく関心を持つ姿勢、これでいいとGOサインを出せるまでしっかりと取材すること、批判をするなら批判できるだけ広く深く取材すること…。
わくわくした取材、涙が出るほどうれしかった取材もあれば、なかなか核心に手が届かない取材にやきもきしたこと、閉ざされた扉の前で泣いたこともあった。
全部楽しくて、全部苦しくて、全部夢中だった。

* * *

心に残っている取材がある。

記者一年目、ただひたすらに現場を駆け回り、取材して書くを繰り返していた。
いろんな人に会っていろんな世界を知れるのは楽しいけれど、
すごい人たちのすごい活動をトレース(写しとる)しているだけのような感覚になることもあった。

そんな時、取材相手から言われた。

「楽しさも苦しさも、自分でやってみないとわからない」
「あなたの筆から綴られる言葉なら、全部自分が言ったことにしていい」

相手に信頼してもらった、この筆で記事を書くということの重み。
自分で何かをやる苦しさや楽しさを味わわなければ、本当の意味で記事は書けないのではないか。
私に、踏み出す勇気と記者としての軸をくれた出来事だった。

(それから始めたのが「おはバカ」(=新聞でおはようバカンス)。週に一度、朝、お茶を飲みながら新聞を読んでいる。)

* * *

社業ではないが、忘れられないのは、入社一年目の「おはら祭」だ。
同期で実行委員会を組織し、南九州最大と言われる「おはら祭」に会社として初めての踊り連を出そうと提案した。目的は「社内の部局を超えた繋がりをつくる」と「地元の祭りに参加することで新聞社を身近に感じてもらおう」の2つだった。
今思えば、入社1ヶ月と立たない、社業のしゃの字もわかっていない新入社員が度胸ある提案をしたことだが、当時の経営企画局長はじめいろんな人に話しに行き、少しずつ賛同を得ることができた。法被デザインやプラカード作り、練習会などを分担し、社員の約5分の1にあたる58人が参加した。すごく大変だったけど、すごく楽しかった。

同期実行委員会には、〈新聞社の存在感を示し地域社会の発展に貢献した〉として、局長賞をいただいた。同期の飲み会に突然局長が現れ、サプライズで表彰式をしてくれた。社業以外の活動、部局を超えたグループに対して賞が贈られるのは異例のことだったそうだ。

挑戦を応援してもらえたことは、
私も「誰かの挑戦は全力で応援しよう」と思える原体験となった。

* * *

「どうして鹿児島に来たの?」

何度となく聞かれた。

「山・海・離島・火山・宇宙……ネタが豊富で面白そうだったから」

その度にこう答えていた。

でも、鹿児島で4年過ごして思う。
一番面白いのは「人」だった。

鹿児島の人は自分たちの課題を自分たちの手で、仲間と一緒に楽しく解決しようとする。
その姿は、「自分にも何かできそう」「きっと仲間がいる」と思わせてくれた。

そんな、「人」の面白い鹿児島で、〈取材して書く〉以外にもいろんなことに挑戦して、誰かの挑戦をいろんな形で後押しできるようになりたくて、新聞社の外に出ることを決めた。

同期は9人。そのひと枠を私に与えていただいたのは、
よりよい南日本新聞を作っていってほしいという思いはもちろん、
一緒に鹿児島をよくしていく同志としての期待をこめていただいてのことだと思う。
新聞社の外に出ても、向いている方向は同じだし、
外に出るからこそ、社内外で一緒にできることがあると信じている。
将来、「門間は新聞社を出てよかったな」と言ってもらえる人間になりたいと思っている。

* * *

2021年3月30日午後7時。最後に3階編集局全体に挨拶し、エレベーターに乗り込んだ。閉まる扉の隙間に、最後の最後まで手を振ってくれる上司と同僚たちの姿が見えた。扉が閉まった時、さすがに涙が出た。

感謝の言葉を重ねても重ねても、十分という気がしなくて、
ここから先は、行動でお返ししていくしかないな。
会社を後にし、そんなふうに思った。


私はまだ、帰りの航空券を買っていない。
来たときの片道切符のまま、また鹿児島で歩き出す。


* * *

2021年4月から、個人事業主となります。
鹿児島市名山町を拠点に、
一般社団法人鹿児島天文館総合研究所Ten-Labで鹿児島のまちづくり・シティプロモーションの仕事
九州地域間連携推進機構株式会社で移住ドラフト会議の運営や九州各地の地域課題解決を進める仕事
名山新聞の発行
おかわかめによる耕作放棄地の再生
・各種ライター業
などをしながら、できることを広げ極める修行をしたいと思います。

人と人をつなぎ、前へ踏み出す後押しをするような”記事のその先”をつくりたくて記者になりましたが、
記事がしっかりしていないと”その先”をつくることはできないということも自覚しています。これからも書くことは続けます。

2021年の書初めは「価値を生む」と書きました。
これまでは新聞というマスメディアを通して社会に価値を生むことができましたが、
これからは自分がどんな場所でどんな価値を生むことができるのか、探し磨いていくべき時だと思っています。

これまでお世話になったみなさま、本当にありがとうございました。
そしてこれからも、よろしくお願いします。

2021年4月1日
門間ゆきの

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