誰かを傷つける誉め言葉

令和六年一月二十四日 水曜日 晴れ

 精神障碍者にとって言われるのが辛い言葉について半年ほど前に書いたことがあります。何故その言葉に傷つくのかという理由も書きました。そのときにいくつか例を挙げた言葉のうちのひとつは「障碍者には見えないよね、障碍者とは思えないよね」でした。
 
 「障碍者には見えないよね、障碍者とは思えないよね」はマイクロアグレッションという立派な差別だと書きました。いまでもそれは変わりません。無暗に使ってはいけない言葉であることは間違いないでしょう。
 でも、障碍者だから様々な面で健常者よりも不都合なことが多いと思われたくなくて、いろいろな面で努力している自分もいます。障碍者には見えないよねと言われるのはその努力が成果をなしている証左であって、わたしにとっては善意の誉め言葉ではないか、だとすれば素直に喜んでもいいのではないか、そんな気持ちになることがありました。
 ただ「障碍者には見えないよね」という言葉で傷つく人がいるのはれっきとした事実であるし、この言葉は障碍者にたいする侮辱です。なのに、障碍者に見られたくないという時点でオマエ自身が障碍者を区別しようとしているではないか、などと思われてしまうような気もします。

 念のために言っておきますと、わたしは障碍者を下には見ていませんし、そんなこと一つも言っていません。ただ、わたしも障碍者ですから不自由な面を持っているけれど、わたしはそのハンディキャップを少しでも超えていきたいんだ、ということを言っています。出来ないことでも無理したら出来るようになるだとか、ハンディキャップを背負って受け入れているようでは駄目だとか、そういうことは一言も言っていませんのでくれぐれも誤解しないでください。

 どれだけ言い方に配慮しても、喜ぶ人もいれば不愉快な気持ちになったり傷ついたりする人も必ず出てくると思います。全員の意見や気持ちが一致するなんていうことは無いと思うし、それは当たり前のことだと思います。
 でも、そうだとしても、わたしは歓ぶ人が百人いたとしても一人が辛い苦しいと言ったならば、善意のつもりの言葉でも使う必要が無い言葉ならば、その人の前では使わないほうがいいと思うし、それは神経質な言葉狩りや言論や表現の自由を妨げるものではないと思うようになりました。わざわざその言葉を使う必要が無いなら、差別性の可能性のある言葉は使わない。ただそれだけのことだと思います。
 それに、大半の言葉は他の言葉に置き換えることが出来るはずです。「障碍者には見えないよね」も「それは○○さんにとっては大変なことなんでしょ?そういうハンディキャップを乗り越えようと努力しているのを見ると頭が下がるよ」とか、ちょっとした言葉の工夫だと思います。その人を褒めるためにわざわざ他の人を下げる必要はありません。

 せっかく誉め言葉のつもりでつかったのにそんなに面倒なこと言わないでよという声も分かります。そういうわたし自身も「えっ、○○君って大阪出身なん?上品やし東京の方かと思ってた」とか言いがちです。それは関西人は下品やって言うてるのと同じことやで。関西人に失礼やろ、と、要するにそういうことです。わたしも気をつけます。 

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