【小説】夏をもう一度

 夏体験プラン、というものに申し込んでみた。私は夏というものを知らないからだ。

 人格のデータ化技術を確立した人類が肉体を捨てデジタル空間に生活拠点を移すまで、そう時間はかからなかった。崩れゆく地球の環境、魂の器としては脆すぎるたんぱく質で出来た肉体、そして肉体を持つがゆえに起こる争い。その争いの果てに生き残った人類が選んだ道、それが人格、そして意識そのもののデータ化だったのだ。そしてデータとなった人類は、まるでノアの箱舟に乗って生き残った動物たちのように、デジタル空間に築き上げられた新世界へと向かったのだ。

 そして時は流れ、今。私はもはや肉体という概念を知らない。肌で感じていたものとか、そういうものを知らない。目に映る景色は花や空の色の変化といった形で「季節」を作り上げていたが、それはもはや贋作の季節に過ぎないのだ。私は自分の体を知覚しているが、それすらも借り物の、アバターにすぎない。ただ私が、そう「思って」いるだけなのだ。何もかもが心地よく感じられるよう作り上げられたこの世界は楽園かもしれないが、そこに真実はない。

 肉体はそんなに悪いものだったのだろうか。肌で感じる「暑さ」とは、どんなものだったのだろうか。私がもはや体験することのないであろうそれに、強く惹かれた。だからこそ、このプランを体験することにしたのだ。

 もちろん、体験プランは体験プラン。実際に肉体を持って夏に飛び込めるわけではない。ただ、私の意識に深く入り込んで、再現された夏の感覚をインストールし、そう私に思いこませてくれるだけ。限りなく解像度の高い借り物の現実、あるいは明晰夢じみた何か。しかしそれでも良い。在りし日の本物の地球を、本物の世界を、私は見たい。

 夏体験プランが始まる。ごゆっくり。そんな声が聞こえてきたその瞬間、私の意識は途切れた。それからどれくらいの時間が経っただろう。私が気が付いた時、私が知覚したのは見知らぬ場所。ここは、資料で見た事がある。おそらく、どこかの会社の事務所だろう。いくつかの灰色の机が島を作り、その机に向かって何人もの人間が一心不乱に作業をしている。机の上に置かれているのは、おそらくパーソナル・コンピューターと呼ばれていたもの。まだ脳とコンピューターの直接接続技術すらなかった時代だろう。ああ、わざわざ指で文字を打たないと書類すら作れないなんて、なんて不便な時代だろう。

 意識が本題から逸れそうになったが、このプランのメインイベントは「夏」を体験することなのだ。しかし、資料で読んだ限り、暑さとはもっと不快感を覚えるものだそうだ。今現在、さして不快な感じもしない。まだ、ここは、「暑く」ないのか。

 機械的な音が聞こえた。それを皮切りに、何人かは席を立ち上がり、各々鞄を抱え外へと出ていく。終業時刻になったのだろう。私も外へ出てみることにした。

 建物の外へと、一歩踏み出した。その瞬間に、顔に何か熱いものが吹き付ける。風だ。しかし風は、もっとあっさりと通り過ぎるようなものではないのか。私が資料で読んだ風と違う。顔に、腕に、体に、足に、熱気がまとわりついてくる。
 そして熱い風を感じたのも束の間、体の内側から、どろりとした熱いものが流れ出てくる感覚を覚える。背を伝う生ぬるさ。これが汗というものか。
 水滴ならばすぐに乾くはずだ。しかし汗はどうだ。乾かない。乾く間もなく、汗が噴き出してくるのだ。乾いても、背中のべたつきが取れない。不快だ。
 そして一番耐え難いと思ったもの、それは照りつける太陽だ。目が痛い。目だけではない。太陽光にさらされている体の部位が、もはや痛い。太陽は人類史において、恵みを与えてくれる存在であったはずだ。世界中で太陽神の神話が語られてきたように。しかしこの太陽はどうだ。恵みを与える神どころか死神か。この時代の人類は、毎日こんなにも強い光を浴びながら生活していたというのか。正気の沙汰ではない。
 もはや、自分そのものが熱い。ああ、こんなもの、早く脱ぎ捨てたい。肉体なんて、私には――

「強いストレス反応を感知。一時中断します」

 耐えられないと思ったその瞬間、私の意識は気づけばあの夏から電脳空間へと引き戻されていた。聞こえてきた柔和な声で、ここはもう現実であると気づき安堵する。
「お客様の意識に急激な負荷がかかっていることをこちらで確認したため、停止措置を講じました。再開しますか?」
声は、そう尋ねてくる。私はもはや迷うことなく答えた。
「いや、ここでやめさせてもらいます」
「かしこまりました」

 こうして、私の夏体験プランは終わった。夏から解放されたあとの私に、もはや肉体への、郷愁にも似た感情は消え失せていた。あのような過酷な体験をするくらいなら、肉体なんてない方がマシだ。やはり人類は肉体を捨てて正解だったといえる。私はここで、夏とは無縁の生活を送ることにしよう。

「夏体験プランは上々だよ。肉体を持ちたがる懐古主義者が続々と申し込んでくる」
「それはそれは。して、彼らの反応は」
「こちらの予想した通りだよ。こんな体験をするなら肉体なんていらない、という結論にたどり着いているみたいだね」
「左様ですか。すべてがデータで構築されたこの理想郷の秩序を乱そうとする者には、肉体の、そして地球時代の現実を見せてやるのが有効ということでしょう」
「ああ、本当に。これでしばらく、懐古主義者たちの肉体復古運動も落ち着くだろう。次は、どうしようか」
「そうですね。夏体験プランに、蚊に刺されるモードを実装しましょう。ますます肉体などいらないと思うはずですよ」