毒にも薬にもならない話_89

エッセイであろうとなかろうと

エッセイがなんたるかをよく知らない。それなのに90日以上、「#エッセイ」とつけて記事を投稿している。実用的な情報でも創作でもなく、ただ自分の経験と感情をありのままに綴るものはエッセイが一番近いだろうと最初に判断したから。

とはいえ、100日を迎える前にもう少しきちんと考えてみようと思い立ち、「エッセーの書き方」という本を手に取った。

エッセイとはフランス語で試み、ためしを意味する。このジャンルを切り開いたモンテーニュは1580年初版の著書「エセー」の中でこのように書いたそうだ。

あなたのお役に立とうとも、自分のほまれを輝かそうとも、そんなことは少しも考えませんでした。この本の中に、わたしの自然の・日常の・堅くもならなければ取り繕ってもいない、ありのまんまの姿を見てください。まったくわたしは、わたし自身をここに描いているのです。…ですから読者よ、わたしみずからがこの本の内容なのです。

一切のごまかしもなく、自分自身を表現する試み。有益な情報でも、格好をつけた言葉でもなく、ただ自分が考え感じたことをありのままに表現する試み。どうやら、私がこの90日書いてきたものは、この定義に照らしていい線をいっていたようだ。そう感じてほっと胸をなでおろす。

その一方で、まだまだ不十分なのだと思い知らされた箇所もある。

事実はそのままでは作品ではありません。

著者が紀行文のコンテストで審査員を務めたとき、時系列どおりの作品の多さ、つまり空港から始まり、旅立つまでの描写が長い作品ばかりなことに辟易したそうだ。事実の集まりは書く人の中を通り、虚構も含めて再構成されることで、初めて作品として訴えかける力を持つ。事実の羅列とエッセイは、似て非なるものだということである。自分の書いたものを振り返ってみれば、やはり時系列どおりに事実を並べたものが多いように思う。事実を昇華して作品の域まで高めた文章には、まだ到達できていない。

完成度を意識すると、筆が止まりそうになる。十分に練り込んだ文章をつくるために、毎日更新をやめた方が良いか迷うから。

1年前に使っていたノートを開くと、そこには「まだ何も書いていない私」がいた。「こんな世界を表現したい」「こんな人に届けたい」といろいろ考えているものの、具体的な文章はこれっぽっちも書けないままで、その事実に焦っていた。

そっか。ここから私は歩いてきたんだ。ちゃんと前進してきたんだ。

エッセイと呼べるものであろうとなかろうと、私はまだ書き続ける。完成度は低くても。試みとしては不十分でも。歩みを止めて、そのまま動けなくなるのはまだ怖いから。

最後まで読んでくださってありがとうございます! 自分を、子どもを、関わってくださる方を、大切にする在り方とそのための試行錯誤をひとつひとつ言葉にしていきます。