美はその時限りだが心は永遠に残る
本日のNHK連続テレビ小説の「らんまん」。
見ごたえあった。見た目にも美しい御膳、花器にもこだわった美しい菊、そしてお座敷遊び。
中でも見どころは菊の品評会。特に、芸妓のお菊さんは自分の名前ということもあり気合が入った豪華絢爛な菊を出品していた。
ここに万太郎の菊は並んでないだろうなと踏んでいたらやはり最後に登場。
しかも、ずらずら~りと並んだ美しい菊とは真逆のコスモスのような小さい花。
これみよがしに鉢も素朴すぎるほどのもの。
「なんだ、これは下げろ~」
と怒号が飛び交う中、万太郎の嫁、おすえちゃんは堂々とこの菊を品評会に出した理由を魅力たっぷりに語る。
先に並んだ菊は中国などから渡来したものを品種改良し、美しく咲かせた菊。
自分がもってきた菊はノジギクといって千年以上も前から人の手が一切加えられていない生まれたまんまの姿。海沿いの崖や岩場に美しく咲き誇っているのだと。
海とともに生きたであろう高知県出身の岩崎も、故郷にいたころノジギクをどこかでみていたのだろう。やさしいまなざしで、おすえちゃんがもってきた菊を眺めながら誰かに思いをはせているようだった。
よく美人は3日であきるとはいうが、それは人それぞれだとして、たとえば絶景を見に行っても何かその場所にまつわる思い出やストーリーがないと、自分の中でみた!と納得してしまい、一度みれば十分と思ってしまう。
「美しい」とは常々なんだろうと考える。
国語辞典によれば
なんだそう。うん、まあそんな感じか。でも求めている答えではない。
美しいというとやはり人やモノなんかを連想してしまう。自分はといえば、そもそもが美人タイプではないので「お美しいですね」とは言われたことがない。ただ、見た目をいわれるより内面の美しさ、たとえば人を思う気持ちやふるまいといったことを「美しい」と褒められる方がうれしい。まあ、これも人それぞれだろうが。
菊の品評会もそれぞれ、どこそこから取り寄せたとか色合いが珍しいなど持ってきた理由をいっていたが、やはりおすえちゃんのノジギクストーリーが一番心に残った。
見た目が美しいにこしたことはないが、美しさよりまさるもの、やはり人であれば人となり、モノであればその背景などがもう一度見たい、会いたいと感じるのではないだろうか。
ノジギクをみて誰かを懐かしんでいる岩崎のように、誰かにふとしたときに思い出してもらえる人になりたい。
美しさはなくても素朴であれ。
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