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165. 最も厳しいコーチであり、最も優しい理解者、父

みなさんこんにちは。三浦優希です。

今日は、今まであまり公共の場では話してこなかった、僕の父親についてお話をしたいと思います。

僕がアイスホッケーを始めたきっかけは、とても単純で、父がもともと選手だったからです。父は元々、西武鉄道という都内のチームでプロアイスホッケー選手としてプレーをしていました。また、1998年に行われた長野オリンピックにも日本代表として出場をしています。

そんな父が身近にいたこともあり、僕は、物心つく前からスティックを握り、アイスリンクにスケートを履いて立っていたそうです。(当時3歳くらい)

僕が、今のレベルでプレイできている理由や、今でもアイスホッケーが大好きでいられている理由は、間違いなく父のおかげだと思います(もちろん母もですが)。

父がいなければ、日本代表を経験することも、アメリカやヨーロッパでアイスホッケーをしていたこともなかったと思います。それくらい、自分の人生に大きな影響を与えた人物です。

父は、僕が小さいころから、つきっきりでアイスホッケーを教えてくれていました。しかし、正直な話、その時間は、決して楽なものではありませんでした。要は、厳しかったということですね。笑

今思い返すと、小学校、中学校、高校時代は、父と練習することは、「楽しい」よりも「緊張する」時間の方が長かったと思います。

それでも、一度も自分がアイスホッケーを投げ出すことがなかった理由は「この人に教われば上手くなれる」と信頼をしていたからだと思います。そこに対しての疑いは一切ありませんでした。

一対一で練習をする機会も多くありましたが、自分が一生懸命やってるつもりでも、「まだまだ足りない」と厳しく言われていたと思います。

また、小、中、高と、僕は父が教えているチームに所属していたわけですが、その期間は、よくみんなの前で叱られていました。「もっとやれる」とか「周りに任せず自分でやれ」といった形で、よく叱責されていたと思います。当時の私(特に若いころ)は、父親がなぜ私に対してこれほど厳しいのか、疑問に思っていました。

でも、父がこのように僕に厳しく接していた理由は、僕自身の夢に関係していたのだと思います。僕はホッケーを始めたころから「プロになりたい、オリンピックに出たい」という夢を持っていました。父の現役選手としての姿を見たり聞いたりしていたからこそ、この夢を持つことはある意味必然だったと思います。

父が僕を叱るときは、いつも決まっていました。それは、僕自身の言動が、僕がなりたい姿に見合わないものだったときです。つまり、「プロになりたい」と自分で言っているのにも関わらず、その夢を達成するためのアクションを起こしていない時に、叱られていたと思います。

逆に言えば、父の都合や気分で怒られたことは一度もなかったし、「僕が下手だから」という理由で怒られたことも一度もありませんでした。

実際、高校生まで父親の指導のもとで学び続けた理由は、彼の指導によってこれまで上達してきたからです。少しでも父からアイスホッケーを学び続けたいという思いがありました。

また、父は僕のことを一番近くでずっと見てきたからこそ、僕のことを一番理解してくれると信じていたし、自分の課題を見抜いて適切なフィードバックを提供してくれるところに大きな信頼を置いていました。

とにかく本当に、小さい頃は本当に毎日練習していたし、厳しかったし、ヘトヘトになるし、それでいざ試合でプレーしてもあまり褒められないし・・といった環境で育ちました。

でも、今思うとこのような日々があったからこそ、僕は今この場に立てている、と強く感じます。何より、多少辛い出来事や課題、スキル面や生活面での壁に直面したときに、そこから逃げ出さずに、その問題に対面し、自分で乗り越えようとする、という姿勢は、父から受けた指導の中で身についたものだと思います。

僕が、自分のアイスホッケー人生の中でも特に嬉しかった出来事が一つあります。それは、初めてシニア日本代表に選ばれた瞬間です。

2017年の平昌五輪予選の時で、当時私は20歳でした。父親は初めてシニア日本代表に選ばれたのが21歳のときだったそうです。その時父親から「俺より1年早く代表チームに入れることができたんだね。本当におめでとう」と言ってもらえたことがありました。

その時、僕はとても感動したことを覚えています。それこそあまり褒められる経験が記憶ではなかったので、当時とても嬉しい思いになったと同時に、父が戦っていた舞台に少しでも並ぶことができたかな、という気持ちになりました。とは言っても、父はオリンピックに出てるわけで、僕はまだそれを成し遂げていないので、実際のところは、まだまだ追いつけていないと感じています。

やっぱり僕にとって父は、世界で一番厳しいコーチでありながらも、世界で一番僕のことを理解してくれている人間であり、そして僕がずっと目指している存在なのだと思います。

僕がオリンピックに出ることへのこだわりが強い理由は、やっぱり父が長野大会に出場したことで、その舞台に立つことへの誇りをずっと聞いたり見てきたからだと思います。僕もその舞台に立ちたいという思いをずっと持っています。

今、僕が海外でプレーを続けられていることは、父親が自身の経験をもとに、小さいころから世界の広さと楽しさを教えてくれたおかげだと思います。僕にとって大きな影響を与えていることは、間違いないと言えます。

今回は父についての話をしましたが、そこにはずっと支えてきてくれてた母の存在も大きいです。それに、妹や姉も、ずっと小さいころから僕の夢をサポートしてくれました。みんなが私の夢を優先してくれたおかげで、今の自分があります。本当に、家族に感謝しています。

今回も最後まで読んでいただきありがとうございました。

三浦優希

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