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1945年8月の断腸亭日乗


1917年9月から1959年4月29日まで荷風が書き送った膨大な日記「断腸亭日乗だんちょうていにちじょう」(日乗とは日記のこと)、1945年あの8月の日記を読む。

漢文訓読調というのか、端然とした文語でその日の出来事、通り過ぎた風景、人々や街の様子、食のことなどを綴っている。この頃、かの谷崎は岡山は真庭郡勝山町に疎開しており、東京大空襲から逃れた荷風は同じく岡山の三門みかどというところに疎開していたが、広島も岡山も焦土と化し、8月13日、荷風は師と仰がれた谷崎を訪ねる。

米の配給が途絶え、物資がままならない極限下にあって、とりわけ食糧難について記しているが、谷崎は荷風に岡山には戻らず、このままこの地に留まるようすすめる。しかし荷風は、灰燼かいじんと化し今日の食もままならない広島岡山の苦しい人心を思えば、そうするわけにはいかないとし、翌日15日、戻ることを決意する。自らの心情の揺れを書くことなく、現実に即して淡々と綴っている。

そして、谷崎と再会を誓って、8月15日午前11時20分発の電車に乗る。いくつものトンネルを抜けて、谷崎夫人が手渡してくれた弁当を開く。白米のむすびに昆布佃煮及牛肉を添えたり、欣喜きんきあたわず、もう飛び跳ねるくらいのうれしさだったに違いないが、しかし行く末分からぬこの過酷な状況下で既知と別れ、焼けてしまった寓居に戻るのだから、ここにはたくさんの涙が流れたに違いない。この弁当と荷風との行間には、決して書かれることのない鳴咽があったと私は読む。

そのあと、うつらうつら眠ってしまったとあるが、正午の玉音放送が流れたのはこのときだったのではないかと推察する。車両に揺られている作家には聞くべくもなかった終戦の詔だが、無事岡山駅に戻り、焼け跡の街の水道水で顔を洗ったあと、友人からこれを聞かされる。これを受けて、あたかもとだけ記している。この8月15日の日記は、〔欄外墨書〕正午戦争停止と刻まれて終わっている。

新たに江戸を見出し、その名残を引きずって、大正昭和を戦後まで生き抜いた荷風、その日記をいま読むに、日本の傷は現代まで連綿と地続きで繋がっており、作家はその大きな橋となってくれているような気がする。


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