さ迷える博士課程の経済学徒へ送る10のアドバイス

2011年10月28日、NY大学で行われた「ワインとチーズの会」にて、世界的なゲーム理論家のアリエル・ルービンシュタイン先生が、さ迷える学生に送った、 Q&A によるアドバイス。歯に衣着せぬ過激な発言でも魅力的なルービン先生。以下、拙訳。


Q1. 博士論文が全く書けず絶望しています。どうすればいいでしょうか。

A1. まずは君がすべきではないことから話そう。自分の専門分野のセミナーに参加しすぎないこと。じゃなきゃ、先行論文に単にコメントを寄せることに終わってしまう。それらの文献のほとんどは、以前のバカげたコメントにさらにコメントをつけることで出来上がっている。
もし本当にいいアイデアが欲しいなら、自分のまわりをよく見て、違う分野の講義を取りなさい。私の博論のいくつかは(たとえば、モラルハザードと無限回におけるプリンシパル-エージェント問題がそうだが)、法律の講義を寝ながら聞いていたときに思いついたものだ。

Q2. 自宅や図書館、大学の個室などでやってみましたが、考えが思いつく場所が見つかりません。単にメールのやり取りをする以上の、本当に考えることができる場所はどこでしょうか。

A2. まず、国際カフェ大学を紹介しておこう。そこは、博士課程の学生がやるべきひとつのこと、つまり「考える」ことができるうってつけの場所だ。多くの大学は国際化を目指しているが、世界のいたるところにあるカフェには及ばない。入店はほぼ無料、特にアメリカではおかわりも大抵無料だ。しかしさらに良いことは、イスラエル陸軍の予備役に入ることだろう。そこで私は最大の研究成果をあげた。1日24時間ずっと考えることができるし、余計な心配はないし、食事は最高だし、外の世界から隔離されている。真面目な仕事をするには理想的な環境だ。それどころか、1982年の私の交渉理論の論文の初稿は、メツラ(イスラエルとレバノンの国境)の大隊長のオフィスのタイプライターで書いたものだ。もしみなが、毎年21日間の予備役の仕事をすれば、経済学学界の生産性は高まるだろうと私は本気で思っている。

ところで私が君と同じ年だった頃、考えに集中できる場所は他にもあったものだが、しかしこのことは、昨今政治的にとやかく言われそうなので、これ以上は言わないでおこう。

Q3. 論文をもうすでに30ページ書きました。何度も繰り返し書いて、証明も必要以上に長くなっています。できる限り不定の項目を加え、離散の場合からバナッハ空間まで終わらせました。それでも指導教官は、これではまだノートにもなっていないと言います。論文はどれだけ長くすればいいのでしょうか。

A3. もしいいアイデアがないのなら、そのまま続けなさい。少なくとも行間なしで60ページになるまで書くように。君のそんな論文は誰も読みやしないんだから。でもそうすれば、QJEやエコノメトリカに掲載されるチャンスはあるだろう。

でももし面白いアイデアがあるのなら、行間を1行ずつにして15ページに収めること。それ以上長い論文で価値のあるものなどあった試しがない。君のとて例外ではない。確かに経済学の論文は長いが、でもそれらのほとんどは死ぬほど退屈だ。一体誰が50ページにも及ぶエコノメトリカの論文を読んで正気でいられるっていうんだ?だから短い論文を書いて世界に貢献するように。新しいアイデアを掘り下げ、証明は最小限まで短くし(もちろんそれはできる!)、ダラダラと長くしないで、エレガントに書こう!

Q4. 経済理論の論文をほとんど仕上げました。書くのが捗っていましたが、いざ結論となると、何カ月も悩んでしまいました。どんな結論にすればいいのかさっぱり分かりません。論文は失敗だったのでしょうか。

A4. いや、その逆だ。とりわけ理論の優れた論文を書いて、でもその結論がないということは、君が博士課程にいるあいだ、まともでいられたという証拠だ。指導教官や編集者は、結論を書くよう決まって要求するものだ。なぜその論文が重要なのかを説明し、将来の研究のために――君は決してそんなことはしないだろう――アイデアを提示するためにだ。でもそれは無意味な説明、いい加減な政策提案、中途半端なアイデアの寄せ集めになるのがせいぜいだ。

理想的な結論とは、結論がないということだ。経済学モデルは寓話のようなものであり、それ自体で成立している。アンデルセンに編集者が、「はだかの王様」のエンディングに政策の含みをもたせるような結論を書くよう求めたとしたら、これがいかに馬鹿げたことか分かるだろう。確かに私自身、この要求に何度か折れたことがある。だから、君が結論を書くことに甘んじたとしても、それはよく分かる。でも少なくとも、自分が書いたことを信じる必要はない。

Q5. 昨日の午後、ちょっとおかしなことがありました。大学に来ていたある著名な経済学者と就職用の論文について話をしていたときのことです。私は緊張していましたが、その学者はよく話を聞いてくれて親切でした。彼は私の考えを褒めてくれましたが、でもその考えはだいぶ昔に彼がすでに考えていたことだと言います。それは、AERに掲載された彼の有名な論文の脚注で言及していると言うのです。それを聞いてとてもまごつきました。自分の論文を撤回すべきでしょうか。

A5. いや、それにはまだ早い。この著名な経済学者が誰なのか知らないが、学界をうろついているこうした学者はときどきいるものだ(著名ではないものもいるが)。もちろんそんな偶然があったからには、君はその学者が本当に正しいのかどうか、君の考えが何年も前にその論文にあるのかどうかを調べなければならない。きっと君は、関連ワードをググり、関連する論文にあたったと思うが、でもそうした読むべきものを見落す場合だってないわけではない。

とはいえ、この学者が研究生活のなかで、あまりに多くのことを考えたせいで、いまではちょっと混乱しているということもありうる。だから誇りに思っていい。その学者は君の考えが素晴らしすぎたので、それは以前自分が考えたことだと勘違いしてしまったのだと。そしてこれはもっと重要なことだが、この不愉快な経験から学ぶべきことがある。それは20年後、君が有名な学者になり、学生から慕われるようになったとき、学生がもってきたアイデアを見て、それは自分がすでに考えていたことだと自信満々に言い切ることはできないということだ。

Q6. 提出した論文が却下されたばかりです。どうしたらいいのでしょう。

A6. いまの君の心理状態は、私もこれまでたくさん経験している。そこで3つのアドバイスをしておこう。

a) レフェリー(査読者)のレポートは読むな。それを読めば落ち込んでしまう。たとえレポートが役に立つとしても、いまの君はそんな状態ではない。

b) 私のモットーを慰めとせよ。「却下されたことのない論文は掲載されるべきではない」。でもこれを、「却下されたすべての論文は掲載されるべきである」と曲解しないように。

c) レポートが本当に馬鹿げているならば、私に倣って自分のウェブサイトにそれを晒すのがよい。そうすれば、学界に貢献できるというものだ。

2000年、私は「ドメスティック・ケンブリッジ・ジャーナル」にいた、実に頭の切れる編集者からレポートを受け取った。提出した論文は、当時主流になりつつあった双曲割引のモデルを批判したものだったが、その編集者曰く「論文には確かに鋭いものもあるが、しかしそれは多くの点で妥当である現行のアプローチを批判したものにみえる。既存の研究への批判をするなら、より専門的なジャーナルのほうがいいだろう。」これを受けて、このレポートを自分のウェブに載せたのだが、これは当の論文などよりももっと重要なことだった。

Q7. 就職の面接にはどんな格好をしていけばいいですか。

A7. この質問は私にこそふさわしい。私は講義でジャケットやネクタイを身に着けたことは一度もない。面接にジーンズにTシャツで臨むのは支配戦略だ。君が優れた学生なら、そんな「だらしのない」恰好でいるからといって落とすような学部は、まずもって君にはふさわしくない。もし君がありふれた学生なら、同じような学生はいくらでもいるわけだ。ジーンズにTシャツというカジュアルな恰好は、君が優れた人物だと思われる唯一の手段だ。

Q8. 就職面接でとんでもない失敗をやらかしたら...と心配したほうがいいでしょうか。

A8. まぁそうだ。でもここで私の経験を聞いてみて欲しい。私はいわゆる「就活」というものをしたことが全くない。しかし1979年、イェルサレムのヘブライ大学で博士論文を仕上げていたとき、教授らの紹介によって、たまたまイスラエルを訪れていたアメリカの教授に会う機会があった。そのうちのひとりが、フランクリン・フィッシャーだった。フィッシャーは、MITのシニア教授で、エコノメトリカの元編集長を務めた、当時学界の大御所だった人物だ。そのとき、エイタン・シェシンキがハヌカーのろうそくイベントを準備していて、始まるまでの1時間のあいだにフィッシャーに会えるよう手配してくれた。居間の隅にあるテーブルに向かって私はフィッシャーと腰かけ、30分ものあいだ、そのときちょうど仕上げたばかりの8本の論文について手短に説明した。フィッシャーはずっと聞いてくれていた。すると、フィッシャーはMITについて何か知りたいことはないかと言ってきた。聞きたいことは何もなかったし、まず何よりもこの過酷な状況から解放されたいと思っていたが、でも拒むことができなかった。それで私は「えぇ」と答えると、なんとフィッシャーは「われわれはMITで教えているが、そこでは英語が使われている」なんてことを言ったのだ。

Q9. いまこそ経済学者になるときでしょうか。

A9. そうだ。間違いない。経済学はいま最悪の状態だ。これは人類にとって痛ましいことだが、でも君にとっては幸運なことだ。

Q10. 最後に、何か真面目なことはありますか。

A10. もちろんだ。ここで言ったことは全部大真面目だ。そこで最後にひとつだけ言っておこう。君たちはこの世で最も恵まれた人間のひとりであることを忘れないように。社会のなかで、君たちは素晴らしいチャンスをつかんだ。自分がしたいことはなんでもできるし、新しいアイデアに集中し、自由に表現できる。しかも自分のやり方でできるのだ。さらには、それによって賞賛されるというオマケまでついている。しかしこうした特権に胡坐をかいていてはいけない。われわれは確かに大変恵まれている。だが、その恩恵を社会に返していく必要があるのだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?